ヤクルトの監督となった関根潤三は掛布雅之、ランディ・バース、ノーラン・ライアンの獲得を企てた (3ページ目)
関根はしばしば「育成の監督」と称される。その根底にあったのは「我慢」だった。そして、何度も同じミスを繰り返しても辛抱強く見守り続けることができたのは、そこに「信頼」があったからなのかもしれない。関根監督がスワローズを指揮した3年間で、池山も、そして広沢も、リーグを代表するスラッガーとなり、その才能は後任の野村克也監督の下で結実することになる。
【関根監督がスワローズに遺したもの】
1989(平成元)年シーズンをもって関根はスワローズ監督の座を辞した。それに伴って安藤も一緒にユニフォームを脱いだ。側近から見た関根とは? そして、関根がスワローズに遺したものは何か? 安藤が静かに口を開く。
「3年間、関根さんの下でやってきて、順位はたしかに悪いんだけど、若い選手たちがプロの身体になりました。それぐらい、練習量はすごかったですから。それを受けて、野村さんが監督になった。ちょうど野村さんの言う理論を実践できる身体がすでにできていた。それはすごく感じますね」
関根が監督に就任して以来、チームは4位、5位、4位に終わり、一度もAクラス入りは果たせなかった。それでも、たしかに次代につながる礎を築いた。安藤は、そう考えている。しかし、ここまで言うと、その口調が強くなった。「野村さんのことを悪く言うつもりはないけど」と前置きをして安藤は続ける。
「私が納得できないのは、野村さんが監督に就任した時に、『1年目に種をまき、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせる』と発言して、実際にそのとおりになったけど、オレね、それだけは我慢できないんです......」
それまで、穏やかに「私」と語っていた安藤は、この時初めて自分のことを「オレ」と言った。
「......種をまいたのは関根さんですよ。関根さんがあれだけ我慢したから、池山も、広沢も、芽が出たんですよ。何でも自分の手柄にしたいのかどうかはわからないけど、そこで関根さんについての言及があってもいいでしょう。『関根さんのおかげだ』とひと言あってもいいでしょう」
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