長嶋一茂がヤクルトに入団した際、監督の関根潤三は「お坊っちゃまに打たせてやってくれ」と若菜嘉晴に懇願した (4ページ目)
若菜の発言に、関根に対する愛情や敬意が色濃く滲んでいるのは、こうしたことが背景にあるからだろう。そして、若菜は続ける。
「野村克也さんはよく、"野村再生工場"と呼ばれるけれど、それは選手として、技術的に、戦力的に再生させるタイプのものだと思います。でも、関根さんの場合は、人間的な面も再生させるタイプの監督だったのではないか? 僕は、そう考えています」
野球の道を断たれかけていた若菜に救いの手を差し伸べること。まだ何者でもない若手選手にとことんチャンスを与え、少しずつ自信の芽を育て上げていく育成スタイル。単に技術を超えた、人としての成長を願う気持ちが関根にはあったのではないだろうか?
「僕が現役を引退してダイエーのコーチだった頃です。当時評論家だった関根さんが、城島(健司)についていろいろアドバイスをしてくれました。『ピッチャーへの返球はしっかり投げろ』とか、『アンパイアに文句を言って心証を悪くしないほうがいい』とか、具体的な言葉をかけてもらいました。それは、城島の成長を願ってのことだと思うけど、その裏には『城島が成長すれば若菜の評価も上がる』という思いがあったのではないか? 僕は、今でもそう思っていますけれどね」
わずか1年半に満たない「監督と選手」という間柄ではあったが、若菜は今でも「関根さんがいたから、自分がいる」と考えている。人間の関係性とは、決して年数、月日、時間で決まるものではないのだということを若菜の言葉が物語っていた──。
(文中敬称略)
若菜嘉晴(わかな・よしはる)/1953年12月5日、福岡県出身。柳川商から71年ドラフト4位で西鉄ライオンズに入団。 6年目の77年にレギュラーをつかむと、同年オールスターにも出場。強肩と強気なインサイドワークを武器に活躍した。 79年に田淵幸一、真弓明信らとの2対4の大型トレードで阪神に移籍。82年に自由契約となり、米マイナーリーグのコーチ兼任で在籍。83年のシーズン途中に帰国し、大洋に入団。89年に無償トレードで日本ハムに移籍。91年に現役を引退し、97年からはダイエー(現・ソフトバンク)のコーチに就任し、城島健司らと育てた。現在は解説者として活躍
プロフィール
長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。
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