長嶋一茂がヤクルトに入団した際、監督の関根潤三は「お坊っちゃまに打たせてやってくれ」と若菜嘉晴に懇願した (2ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

 当時、大洋の誇るスラッガーの田代は、一発の魅力を秘めつつ、まだまだ粗削りなバッターだった。阪神のベテラン・江本孟紀は「アイツにはカーブを投げていれば絶対に打たれない」と言い、同時に「もしもカーブを打たれるようになったら、引退する時だ」と豪語していたという。

「でも、次第にそのカーブも打たれるようになってしまった。実際にその年限りで江本さんは引退しましたからね。チームメイトで言えば真弓(明信)もそうでした。ある時期からいきなり弱点を克服する瞬間が来る。池山と広沢にも、その怖さは感じていました」

【勝敗論を超えたショーマンシップ】

 関根がヤクルト監督退任後の90(平成2)年に発売した『一勝二敗の勝者論』(佼成出版社)という本がある。のちに本人は「こんなタイトルはお客さんに失礼だよ。一勝二敗は決して勝者じゃない」と語っているが、そもそも関根には勝敗を度外視してまでとは言わないものの、「若手を育てる」ということと、「ファンを魅了する」というポリシーがあったのではないか? 若菜が重要な指摘をする。

「最終的には勝たなければいけない。それはプロとしての大前提ですけど、その一方ではお客さんはプロ野球選手個々のプレーも見に来ているわけですよね。たとえば、田代の特大ホームランとか、山下大(輔)ちゃんの華麗なフィールディングとか、あるいは屋鋪(要)の俊足とか。僕で言えば、クロマティとのケンカもそうかもしれない(笑)。スポーツマンシップは大切だけど、そこにショーマンシップもなければいけない。関根さんは、そんな考えを持っていたような気がしますね」

 長嶋一茂が入団した際に、「坊っちゃんに打たせてやってほしい」と関根が発言したということはすでに述べた。あるいは、89年にルーキーの笘篠賢治が盗塁王争いをしていたシーズン終盤には、大洋時代にともに過ごした高木豊に向かって、「笘篠と同数でタイトルを獲ればいいじゃないか」と持ち掛けたこともあるという。

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