ウグイス嬢と記者の雑談から生まれた「8時半の男」 宮田征典がブルペンに姿を現すだけで球場が大騒ぎとなった (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 先発完投が当たり前の時代に、突然変異的に抑えで勝ち続ける投手が現われたのだ。相手打者の言葉には戸惑いも感じられる。その点、投手はまた違う。宮田の急台頭で他球団の抑えに陽が当たり、64試合(7先発)に登板して18勝を挙げた広島・竜憲一は"西の8時半男"。55試合(8先発)に投げて救援で10勝を挙げた中日・板東英二は"8時45分の男"と呼ばれた。

 しかし何と言っても、元祖"8時半の男"は20勝。リーグ最多の69試合に登板し、164回2/3を投げて防御率2.07と驚異的な数字を残している。まして、当時まだセーブ制度はないが、現行のルールに当てはめると22セーブ。同年のチーム91勝中、42勝に貢献したことになる。"巨人V9"が始まるこの年の優勝に、宮田は絶対欠かせない存在だった。

 また、同年の城之内は21勝、中村も20勝を挙げたが、そのうち城之内の8勝、中村の6勝は今なら宮田にセーブがつく。中村は5月の試合で「宮田が出れば絶対安心できるので、あっさりマウンドを降りた」と言っているが、城之内も降板時に同様の心境はあったのだろうか。

「いや、オレは悔しいだけ。完投できないことがね。宮田がいてありがたいという気持ちもそんなになかった。だいたい、オレのほうがエースなのによ、宮田がスターで有名なんだから(笑)。だって、宮田は4年目で初めて20勝、オレは4年間で24勝、17勝、18勝、21勝だよ。で、給料、オレが一番下だったの。契約してびっくりした。宮田と中村さんのほうが上だったんだから」

 エースのプライドの前では抑えも形無しだが、後年、宮田自身が明かしたところでは、年俸は4倍に跳ね上がったという。だが翌66年、城之内は21勝を挙げるも、宮田は肝臓を壊して入院。以降は成績が低迷し、69年に現役を引退。その後は巨人、日本ハム、西武、中日で長くコーチを務めたが、"8時半の男"は1年限りだった。その1年限りを城之内はどう見ていたのか。

4 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る