「エレベーター選手」森福允彦が球界屈指の左腕になれたワケ 高山郁夫が語る「SBM」結成以降のホークスリリーフ陣 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

── 甲藤投手も2010年には65登板、15ホールドと健闘しました。

高山 なかなか芽が出なかった投手でしたが、とくに「SBM」の誰かが休養の日、森福らとともにしっかりカバーしてくれました。ありがたい存在であったと同時に、登板ごとに成長し、自分のポジションを確立していきました。

── リリーフ陣がしっかりしていると、戦いやすくなりますね。

高山 秋山幸二監督の狙いは、まさにそこにありました。ゲームの中盤以降、相手チームに相当なプレッシャーをかけられたと思います。大黒柱だった斉藤和巳が肩の故障でつらい時期に入ってしまい、杉内俊哉、和田毅の両エースが中心となってチームを引っ張ってくれていましたが、新しい先発投手を育成するのも喫緊の課題でした。

── 投手運用で苦心した点はありますか?

高山 当時、先発投手陣のなかで年間通して計算できたのは、杉内、和田のふたりだけでした。ほかの中堅、若手投手たちを、勝ちながらどう育成していくか。できるだけ競争原理も崩さないよう、秋山監督と密にコミュニケーションをとっていました。とくに実績のない若手投手には、身体的な故障はもちろん、心を潰さないように注意を払っていました。1年トータルでチームの勝率を上げるため、若手に勝ち星と自信をつけさせるため、リリーフを充実させる戦術をとりながら、運用していました。時にリリーフの休養、運用を巡って、監督との口論がたびたびありましたが、あとを引くことなく、前に進めました。

── 2011年は攝津正投手を先発に回すと、14勝と活躍。チームは88勝を挙げて圧倒的な力で優勝しました。

高山 あの年は、内川聖一や細川亨といったFA選手の加入により、かなり戦力がアップしました。内川の打撃はもちろんですが、投手陣からすると、細川の大胆なインサイドワークが新鮮でした。たまに大胆すぎて、監督に雷を落されたこともありましたが(笑)。彼のリードに助けられ、私もあらためて勉強させてもらいました。森福らリリーフ陣のレベルが上がり、攝津を先発として起用できるようになり、先発とリリーフのバランスがよくなったことも、完全優勝のひとつの要因でした。

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