「エレベーター選手」森福允彦が球界屈指の左腕になれたワケ 高山郁夫が語る「SBM」結成以降のホークスリリーフ陣

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

高山郁夫の若者を輝かせる対話式コーチング〜第8回

 オリックスのリーグ3連覇など、数々の球団で手腕を発揮してきた名投手コーチ・高山郁夫さんに指導論を聞くシリーズ「若者を輝かせるための対話式コーチング」。第8回はソフトバンク投手コーチ時代、最強の勝ちパターン「SBM」結成以降の投手運用と盟友・秋山幸二氏との関係について語ってもらった。

2011年から4年間は50試合以上に登板するなどソフトバンクのリリーフ陣を支えた森福允彦 photo by Sankei Visual2011年から4年間は50試合以上に登板するなどソフトバンクのリリーフ陣を支えた森福允彦 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【投手運用の難しさ】

── 前回は2009〜2010年ソフトバンクの必勝投手リレー「SBM(攝津正、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩)」の誕生秘話をお聞きしました。

高山 2008年にはいなかったリリーフの核ができて、投手陣全体に厚みが出てきました。その後も甲藤啓介、金澤健人、森福允彦、柳瀬明宏といったリリーフ陣が台頭してくれました。

── 金澤投手は2010年途中から加入した中堅でしたが、自身4球団目となるソフトバンクで活躍しました。何が変わったのでしょうか?

高山 他球団にいた頃はムラがあって、コントロールが不安定という話を聞いていました。移籍当初も結果を求めるあまり、コースを狙い過ぎて、かえってカウントを崩していました。彼は変化球のキレと腕の振りがいいので、「ゾーン勝負で、ファウルでカウントを進めよう」と話した覚えがあります。凡打コースは、チャートで確認すると甘いんですけど、腕を振りきれるようになったので結果がついてきたのでしょうね。逃げない姿勢がベンチに勇気をくれました。

── 森福投手は2010年に一軍に定着すると、翌2011年に34ホールドをマークするなど左の中継ぎとしてなくてはならない存在になりました。

高山 2年目までは特徴に乏しく、一軍と二軍を行ったり来たりする、いわゆる「エレベーター選手」でした。でも、厳しいプロの世界で生き残るために、自ら試行錯誤していました。投球フォームをサイドに替え、投げ込み量を増やして、必死にフォームを固めていました。独特の軌道のスライダーを武器にして、左バッターにまともなスイングをさせないところから、一軍に定着し始めて。さらに右打者にも対応できるようになり、リリーフの中心的存在になっていきました。フォームを変えることはすごく勇気がいるのですが、その決断と行動力が彼の野球人生を大きく変えたと思います。武器を手に入れて、チームに欠かせない選手に成長してくれました。

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著者プロフィール

  • 菊地高弘

    菊地高弘 (きくち・たかひろ)

    1982年生まれ。野球専門誌『野球小僧』『野球太郎』の編集者を経て、2015年に独立。プレーヤーの目線に立った切り口に定評があり、「菊地選手」名義で上梓した『野球部あるある』(集英社/全3巻)はシリーズ累計13万部のヒット作になった。その他の著書に『オレたちは「ガイジン部隊」なんかじゃない! 野球留学生ものがたり』(インプレス)『巨人ファンはどこへ行ったのか?』(イースト・プレス)『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)など多数。

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