「エレベーター選手」森福允彦が球界屈指の左腕になれたワケ 高山郁夫が語る「SBM」結成以降のホークスリリーフ陣 (3ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

【落合監督の中日を破り日本一】

── 当時のソフトバンクは、ポストシーズンで苦しむ印象がありました。

高山 みんな金縛りにでもなったように苦しんでいました。ポストシーズン敗退が続いていて、責任感の強い人間ほど、体と頭が一致してない雰囲気がありましたね。

── 2011年のクライマックスシリーズはいかがでしたか?

高山 シーズン独走でのクライマックスシリーズだったので、また強烈なプレッシャーでした。乗り越えられた要因のひとつは、その重い空気を吹き飛ばしてくれた内川、細川の存在だったと思います。ホークスの呪縛を知らない戦士だったので。日本シリーズも紙一重の戦いでしたが、落合博満監督、森繁和ヘッドコーチの中日から勝利できて、すごく自信になりました。長い1年でしたけど、最後まであきらめずに戦ってくれた選手たちには、感謝しかありませんでした。

── 盟友の秋山監督からはねぎらいの言葉はありましたか?

高山 「お互いにしんどかったな」と笑顔で握手したのを覚えています。私がこの世界に戻ってこられたのも、すべて彼のおかげ。少しでも彼の力になれたかなと思った瞬間でした。

── その後、2013年シーズン後に高山さんはオリックスに移籍。2014年はオリックスとソフトバンクがリーグ最終戦まで優勝を争う、壮絶なシーズンになりました。

高山 2014年のオフ、秋山の奥さんが3年あまりの闘病の末に他界されました。2011年のオフに奥さんが病に倒れて以降、誰にもその事実を語らず、弱音も吐かず、凛として監督業をまっとうしていました。早い段階でその事実を伝え聞いていた私は、常に秋山の体調が気になって心配でした。

── 同年のソフトバンクはリーグ最終戦でサヨナラ勝ちを収めてリーグ優勝。ポストシーズンも勝ち上がって、阪神との日本シリーズも制して3年ぶりの日本一に輝いています。同年限りで秋山監督は退任しました。

高山 優勝を宿命づけられた球団で、現場の先頭に立つ監督は、本当に大変で、孤独との闘いでもあったと思います。秋山幸二の下で、一緒に仕事ができて光栄でした。

(つづく)


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した

著者プロフィール

  • 菊地高弘

    菊地高弘 (きくち・たかひろ)

    1982年生まれ。野球専門誌『野球小僧』『野球太郎』の編集者を経て、2015年に独立。プレーヤーの目線に立った切り口に定評があり、「菊地選手」名義で上梓した『野球部あるある』(集英社/全3巻)はシリーズ累計13万部のヒット作になった。その他の著書に『オレたちは「ガイジン部隊」なんかじゃない! 野球留学生ものがたり』(インプレス)『巨人ファンはどこへ行ったのか?』(イースト・プレス)『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)など多数。

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