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江川卓の入団時に巨人のエースだった新浦壽夫の矜持「江川は20勝する」の声に対しての本音は? (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 60年代後半、まだガチガチのスモールベースボールだった高校野球界に、突如、三振を奪いまくるサウスポーが現れたものだから、プロのスカウトが垂涎の的として注目し始めたのも無理はない。

 しかし甲子園大会後、予想もしていなかった出来事が起きた。福井国体に出るため、3年生たちが引退せずに練習をしていると、<韓国籍(のちに帰化)の新浦は国体に出場できない>という新聞報道が流れたのだ。甲子園での喧騒がまだ落ち着いていないなかでの報道に、秋季大会に向けて練習を続ける新浦は困惑した。国籍問題がここでクローズアップされるとは思いもしなかった。

 じつはこの国籍問題により、事態は急変する。当時の野球協約には「外国籍選手はドラフト制度の適用を受けない」という旨の記述により、高校を中退すれば即交渉可能ということがわかった途端、新浦の周辺が騒がしくなっていく。

 MLBのサンフランシスコ・ジャイアンツを筆頭に日米争奪戦が始まり、大人の事情でアプローチを重ねた巨人に新浦は入団することになった。甲子園大会が終わって、わずか18日後のことだった。事情はまったく違えども、ドラフトの盲点を突いた入団であったという点では同じだと言える。

「そういう形で巨人に入って、ちょうどV4の時だったかな。でも巨人の野球なんて見たことなかったし、長嶋(茂雄)さん、王(貞治)さんも知らなかった。野球はできたけど、野球音痴でしたね(笑)」

 新浦は、プロ野球選手に憧れて野球をやったわけではない。ただ野球ができたので、周りに勧められるがまま、あれよあれよという間に巨人へ入団。自分の意思などなかった。

【長嶋政権1年目に2勝11敗】

 17歳で入団したため、最初の2年間は体づくりに没頭した。入団3年目で一軍に昇格し、4勝、0勝、3勝、7勝と時間をかけながら着実に結果を残していった。そして75年、長嶋茂雄が監督になった初年度、前のシーズンに7勝を挙げた新浦は、多大な期待をかけられた。しかし、投げれば打たれる......の繰り返し。スタンドからは「引っ込め」「帰れ」といった怒声、時には国籍のことを揶揄する罵声を浴びた。それでも新浦は、来る日も来る日もマウンドに上がった。

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