検索

江川卓の入団時に巨人のエースだった新浦壽夫の矜持「江川は20勝する」の声に対しての本音は? (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

「長嶋さんに鍛えられたってよく言われますが、それは長嶋さんなりの構想があって、当時の巨人のなかで必要なピースとして白羽の矢が立ったのが私だった。構想を現実にするため『ピッチャーならこいつ』『バッターならこいつ』と、選手をつくり上げていかないといけないという感覚だったと思いますよ」

 プロ野球史上最大のスターだった長嶋は、V9監督の川上哲治のあとを受け、74年に引退と同時に監督に就任。しかし、現役時代は一点の曇りもなかった長嶋だったが、監督に就任した途端、現役時代の栄光とはかけ離れた所業を演じる。

 長嶋一次政権初年度は、屈辱的とも言える巨人初の最下位に終わり、2勝11敗の新浦は"戦犯"のひとりに数えられた。

 新浦にとってこの75年シーズンは、何度唇を噛んだことだろう。新浦は矢面に立って罵声を浴び続けた。ただ2勝11敗という数字の割に、防御率は3.33とそこまでひどい成績ではない。だからといって、世間の評価は変わるわけではない。

 ここで潰れるか、潰れないかの分水嶺に立たされた新浦は、世間を見返すかの如く、翌年から見違えるピッチングを披露し、4年連続2ケタ勝利を挙げる活躍をみせた。江川が入団した79年は3年連続2ケタ勝利を挙げ、名実ともに左のエースとして君臨していた頃だ。

「初めて江川の球を見たのはブルペンです。『いい球を放るなぁ』と思いました。ただ、入団した経緯が経緯なだけに、ジャイアンツファンのなかでも嫌味を言う人が多く、そういうのを聞くのも嫌でした。『やってるな』って黙って見てあげりゃいいのにと。逆に、20勝するような力を持っているといった声も聞こえ、『やってみなけりゃわからんだろうよ』とも。そういった意味で、必要以上に注目されて大変だったと思います」

 17歳でV9まっしぐらの巨人に入団し、コツコツと叩き上げられエースにまで上り詰めた新浦に対し、高校1年からずっと注目を集め続け、常にアマチュア球界の中心人物だった江川。当然、巨人に入った経緯も違えば、お家事情も大きく異なる。艱難辛苦の末にエースをつかみ取った漢(おとこ)と、これから巨人のエースへと一気に駆け上がろうとする若者とが、己のプライドをかけて交差していくのだった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

フォトギャラリーを見る

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る