球団譲渡、イチローフィーバー、近鉄との吸収合併...阪急・オリックスで46年、松本正志が振り返る激動の球団史 (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 当時の阪急は3年連続日本一と、まさに黄金期でした。

松本 東洋大姫路の梅谷馨監督には、1年の頃から「卒業したらいい監督のいる神戸製鋼に行きなさい」と口酸っぱく言われていました。そこで私の従兄弟である小谷正勝さん(1967年大洋ドラフト1位)に、ドラフト前に相談しました。「地元の阪急か阪神、在京なら自分がいる大洋(現・DeNA)か巨人ならプロ行きでいいんじゃないか」とアドバイスされていたのです。

【1時間19分の中断直後に登板】

── プロ1年目は6試合に登板して勝敗はなしでしたが、ヤクルトとの日本シリーズ第7戦のあの1時間19分の中断直後、足立光宏投手に代わりリリーフしました。

松本 日本シリーズ前、審判の方が「セ・リーグにいない速さだ」と言っていたのと、私自身が好調だったこともあり、上田利治監督に「どこかで投げさせるからな」と言われていました。ただ、あの7戦まで出番はありませんでした。

 足立さんが大杉(勝男)さんに打たれた打球をめぐって中断し、結果的に1時間19分まで長引きましたが、中断して10分の時点で「次、リリーフでいくからな」と通達されていました。5番のチャーリー・マニエル、6番の杉浦亨さんと左打者が続いたからです。

── 通達後、かなり待たされましたね。

松本 後楽園球場のレフト側のブルペンで投げていたのですが、緊張でずっと心臓がバクバクしていました。当時『プロ野球ニュース』のキャスターを務めていた佐々木信也さんが取材でレフトポール際に来て、「松本くん、今の打球はどうだった?」と聞いてきたのですが、上の空で「ファウルだった気がします」と答えたような気がします(苦笑)。

── 登板後はマニエル選手にソロ本塁打を浴びました。

松本 マウンドに上がり、投球練習のときは足が震えていました。それでも2ストライクと追い込んだのですが、レフト中段に本塁打を打たれて......ガックリきました。そのあとの杉浦さんは三振、大矢(明彦)さんはショートゴロに抑えたんですけどね。

 日本シリーズ終了後、出場選手への分配金があります。当時は「君はこれくらい、あなたはこれくらい」と手渡しの時代です。怖い先輩たちに「おまえ打たれたんだから、みんなに配ってこい!」と言われて、ひとりずつ配ってました(笑)。

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