プロ6年目のブレイク 日本ハム・田宮裕涼は打てて、守れて、走れる「新スタイルの捕手像」を確立できるか (2ページ目)
百戦錬磨の五島監督は、初回からスチールを仕掛けて田宮を揺さぶってくる。完全にアウトのタイミングだったが、あまりの送球スピードの速さにベースカバーに入ろうとした野手が追いつけず、盗塁を許す。それでも観客席から上がった「おおぉー」という歓声は、田宮の鉄砲肩を称賛するものだった。
「そう、スローイングなんです。田宮がすばらしいのは」
尾島監督の言葉に熱がこもる。
「アイツがすごいのは、あのスローイングを3年間変えなかったことなんです。おそらく『二塁ベースに届かせよう』という意識はなかったはず。上から叩きつけるような軌道で、ベースに突き刺す。その意識を崩さなかったのが、田宮なんです」
まだ体幹の強さが足りず、下級生の頃はベース前でショートバウンドしてしまう送球が目立ち、みすみす盗塁を許してしまう場面があったという。
「当時、『もうちょっと送球の軌道を上げてみたら』って言おうかと思ったんです。でもある時、『アイツは今からプロに行った時のことを見据えているんじゃないか』と。プロから認められ、プロに進んでからの強力な武器にするために、あの弾道の低い送球にこだわっているんじゃないかと」
【成田高に来るような選手じゃなかった】
当時の田宮は、身長175センチ、体重73キロと決して大きな体躯ではなく、足は速いけど、飛び抜けた長打力があったわけじゃない。プロ野球界のサバイバルに勝つには、武器のスローイングを磨くしかない。そんな覚悟が、すでに高校の早い時期から芽生えていたのでは......と尾島監督は振り返る。
「(成田高OBの)唐川(侑己/現・ロッテ)の時も、クイックとか牽制とか、細かいことはあまり言わなかったんです。大きく育てるというか、田宮の場合もそうかもしれませんけど、一生懸命練習して、体が大きく強くなればできるようになるんです」
中学時代の田宮は、強豪と言われる佐倉シニアでプレーし、バリバリの正捕手だった。「ほんとなら、ウチに来るような選手じゃない......」と尾島監督は謙遜するが、じつは田宮の祖父が成田高野球部OBで、母のお兄さんふたりもそうだった。
「来るべくして来た選手とも言えるんですけど......」
そうした運命的なつながりもあったわけだ。
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