江川卓がセンバツでまさかの敗退 勝った広島商の達川光男はプロ入り後に知った事実に驚愕した (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 試合は2対1で広島商が勝利。江川がついに敗れた。広島商の心理作戦と奇襲で、江川を攻略したのだ。広島商の機動力にやられた感はあるが、ピッチング内容は本来の調子とはほど遠いものだった。広島商の待球作戦や4連投の疲労など、敗因はいろいろ挙げられているが、じつは体調不良が原因だった。

【試合前日に首を寝違える】

 前日、雨で1日順延となったため、江川は午前中に室内練習場で軽めのピッチングをし、午後から休養をとっていた。その時、大広間のソファーで寝ていた際、首を寝違えてしまったのだ。寝違えた江川は、ランナーが出ても首が痛いため牽制ができず、盗塁はされ放題だった。

 のちに広島カープの正捕手として活躍し、プロでも江川と対戦を重ねた当時の広島商のキャッチャー・達川光男が、このセンバツ大会のことを克明に語ってくれた。

「秋の中国大会からセンバツまでの間、江川のことは噂レベルでしか聞いていなかったが、センバツでは"論より証拠"、本物を見てしまった。見た瞬間、あの球を打つにはどうすればいいかと本気になった。それまでは守り勝てばいいと思っていたが、それじゃ無理だと思った。江川レベルの投手は打ち返さなくてはダメ。各々が全体練習後にティー打撃500球をノルマに個人練習をやった。どんな強豪校であろうと、同級生にすごいのがおったらそいつを打ち崩すためにやるのが高校野球というもの。

 プロに入って、江川から首を寝違えていたと聞いて、それであのボールかと驚愕した。盗塁でかき回すことができたのは、首の痛みでランナーが見えなかったから。本来、投げられる状態じゃないのに、あれだけのピッチングをした。あらためてすごい男だと思った」

 作新に勝った広島商は、決勝の相手が横浜高になり「楽勝」と思ったという。今でこそ甲子園常連の強豪校だが、当時はまだ新興校。広島商からすれば格下相手に思えたが、予想外の展開となる。

 その理由は、江川を攻略したことである種の「燃え尽き症候群になってしまった」と監督の迫田をはじめ、当時のメンバーが胸の内を明かした。

 決勝は延長11回表、横浜の冨田毅が2ランを放ち、3対1で横浜が勝利して初優勝を果たした。試合後、横浜高の監督・渡辺元智はこう語った。

「まだ目標が残っています。夏こそ、自分たちの手で江川くんを打ち崩したいです」

 渡辺はあくまでも力対力で倒してこそ、"打倒・江川"の本懐であると思っていた。夏の戦いは、もう始まっていた──。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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