阪神タイガース史上最大のミステリー プロ野球経験のない謎の老人監督・岸一郎の正体 (3ページ目)

  • 村瀬秀信●文 text by Murase Hidenobu

 亀裂が明らかになった試合が、開幕3試合目の大洋戦だった。2対2で迎えた7回表タイガースの攻撃。ツーアウトから4番・藤村富美男がフォアボールで出塁すると、岸監督はここで勝負をかけるべく藤村に代わり代走を宣告する。

 ベンチから3年目のキャッチャー山本哲也が小走りに一塁ベースへ駆けていくも、一塁ベース上から藤村が動こうとしない。それどころか「オマエは帰れ!」と山本に告げたのだ。

 藤村は、勝負どころはまだ先と見ていた。ここで代走を送るよりも、終盤にもう一度自分が打席に立つほうが勝利する可能性は高いと拒絶したのだ。結果的に、場内アナウンスがされていたため、審判の裁定で藤村は交代するのだが、現場の指揮権を持つ監督に反旗を翻したこの前代未聞の交代拒否事件から、次第に選手たちの心は老監督から離れていってしまう。

 やがて、開幕から2カ月にも満たない5月21日。岸の休養が発表された。理由は「痔の悪化」。手術のために休養すると発表されたが、実際はしていないとのちに本人が語っている。

 岸はこの先、二度とタイガースのベンチに戻って来ることはなかった。タイガース再建の理想を大きく掲げ、それを実行に移そうとも、肝心の選手の心を掌握できなければ結果など出ることは叶わない。わずか33試合16勝17敗でチームを去ることになってしまった。

 岸が野田に送った『タイガース再建論』。それは投手を中心とした守りの野球と、藤村富美男をはじめベテランから若手へと切り替えを進め、投手のローテーションを回し、競争のなかから積極的に若い投手を登用しようと理想を描いた新しいタイガースである。

「何はなくとも、完投能力のある投手を4人はつくりたい」

 就任会見で宣言したマニフェスト。ルーキーながらこの年の開幕投手に抜擢した西村一孔は22勝で新人王を獲得し、半人前だった大崎三男、渡辺省三、小山正明の若手投手はこの年で一気に主戦投手に名乗りを上げるなど、この年が終わる頃には岸が目指した4人の完投型先発が揃うことになる。

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