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殿堂入り・谷繁元信のリード術を吉見一起が回想「わざとヒットを打たせておいて、大事な局面では90〜100%の確率で仕留める」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── スローイングについては、谷繁さんは捕ってから素早かったですね。

吉見 僕が初めて2ケタ勝利を挙げた2008年、谷繁さんはすでに38歳でした。全盛期は過ぎていたと思いますし、谷繁さんより肩の強い捕手は何人もいました。でも、盗塁阻止率は谷繁さんのほうが高かった。捕球してからのスピードで補っていたんでしょうね。動きに無駄がなかった。2009年、11年、12年とゴールデングラブ賞に輝いていますし、11年は「最優秀バッテリー賞」をいただきました。

── 40歳を超えてもまったく衰え知らずでした。

吉見 捕手として史上4人目の2000安打を達成し、日本プロ野球史上最多の3021試合出場......これだけの試合数に出るのですから体が強いことは間違いないのですが、試合後は全身にアイシングを巻くなど、ケアもしっかりやっていました。あのアイシング姿を見て、キャッチャーは大変なポジションなんだなと再認識しました。

── 谷繁さんとバッテリーを組んで、一番印象に残っていることは何ですか?

吉見 14歳年上で、実績も豊富で、恐れ多くてなかなか話ができない大先輩でした。印象に残っているのは、マウンドに来て「真剣に投げろよ!」「気合いを入れて投げろ!」と叱咤激励してもらったことですね。僕は気合いを入れて投げているつもりでも、ミット越しに受ける左手の感触は違うということなのでしょうね。どうすれば谷繁さんのイメージしているボールを投げられるのか。そんなことばかりを考えていたような気がします。

── あらためて、谷繁さんはどんな選手でしたか。

吉見 負けると誰よりも悔しがっていました。その反面、たとえば僕がピンチを切り抜けたり、大事な試合で完封勝利したりすると「ナイスピッチング!」と、まるで子どものように喜んでハイタッチしてくれました。とにかく野球が好きで、勝つことが大好きなのでしょうね。だから日本プロ野球史上最多の3021試合も出場できたのだと思います。野球殿堂入り、心よりおめでとうございます!


吉見一起(よしみ・かずき)/1984年9月19日、京都府生まれ。金光大阪高3年時に春の甲子園に出場。卒業後はトヨタ自動車に進み、2005年ドラフト1位(希望枠)で中日に入団。08年に10勝を挙げると、翌年は16勝で最多勝に輝いた。11年には18勝、防御率1.65で最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。08年から5年連続2ケタ勝利を挙げるなど、中日のエースとして黄金期を支えた。20年に現役を引退。引退後は解説者、トヨタ自動車硬式野球部のテクニカルアドバイザーとして活躍。23年に侍ジャパンの投手コーチに就任した

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