なぜ1992年の阪神投手陣は劇的に飛躍したのか 元阪神コーチ・有田修三が衝撃の告白 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 中村勝広監督自ら、有田に打診していた。バッテリーコーチ補佐を経験したとはいえ、まだ指導者としての実績はない。とくに両者に接点があるわけでもなかった。純粋に有田が持つ捕手としての技術、能力を認め、若手に伝授してほしいと考えたのだろうか。ひとつ言えることは、前年12月に甲子園球場のラッキーゾーンが撤去された影響である。

 外野の左中間、右中間が8mも深くなったグラウンド。足も肩もある外野手が求められる一方で、攻撃面では本塁打が出にくくなる。守り重視の野球を目指すうえで「センターライン強化」が課題となれば、要の捕手の技術、能力向上は不可欠。そのなかで若い山田勝彦、関川浩一の成長が急務という事情もあり、新たなバッテリーコーチとして有田の名が浮上したようだ。

「バッテリーコーチといえばね、当時はベンチにほとんどいなかった。ブルペンに入るものだった。だからバッテリーコーチでベンチに入ったの、ワシが初めてや。勝っちゃんが『ワシの横におってくれ。それで何かアドバイスくれ』言うて。そういうこともあってワシを獲ったみたい。で、その時の阪神はブルペンコーチもいて、渡辺長助がやっとった」

 監督が野手出身か、投手出身かで違いもあるなかで、その横にはヘッドなど作戦面を担当するコーチがつくことが多い。近年ではバッテリーコーチも監督の横につくが、当時はそこまで大事なポジションとの認識がなかったという。いかに同年の中村監督が、投手を含めた守りを重視しようとしていたかうかがい知れる。

「ただその時に、ピッチングコーチが大石清。ワシが近鉄におる時にコーチやったからよう知っとったんやけど、大石さんも『ワシの横に絶対座っとってくれ』言うて(笑)。それでふたりで話しながら、ピッチャーの交代とか、何のサイン出すとか。結局は、大石さんとワシで監督を支えるような感じやったね」

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