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「怪奇現象ピッチング」の320勝投手にロッテのエース・木樽正明が驚愕 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 取材当日、木樽さんご指定の銚子市体育館を訪ねた。約束の11時までまだ10分ほどあったが、館内に入って携帯電話をかけると、受付窓口の向こうで一人の男性が僕のほうを見て手を挙げた。「どうぞ。どうぞこちらへ」と言いながら、ドアを開けて出迎えてたくれたその人が木樽さんだった。

 文献資料には〈182cm〉とあったが、それ以上と思える長身。チャコールグレーのジャケットに千鳥格子柄のズボンを合わせたスタイルは71歳という年齢(当時)をまったく感じさせず、彫りの深い顔立ちは昭和時代の名優を彷彿とさせる。いただいた名刺には犬吠埼灯台の写真が配され、〈銚子市行政アドバイザー〉とあった(2020年3月に退任)。

「4年前に銚子へ帰ってきて、そういう肩書きで仕事をしているんです。スポーツを通じて市を活性化するという、そのお手伝いをさせてもらってます」

 天井が高い室内に低いトーンの声が朗々と響いた。事務室の一角にある応接スペースで向かい合うと、木樽さんは背筋をピンと伸ばし、ソファに浅く腰掛けた。まずは、投手としての原点を知りたい。

「私が本格的に野球を始めたのは中学のときですが、別にピッチャーをやりたいっていう願望はなかったんです。3年生のときはもうひとりのピッチャーがエースで、私はファーストを守って、お互いに交代しながら投げて。銚子商業でも最初はサードでね、春の大会はタイムリーエラーして、えっへっへ」

 エラーがあって試合に負けたのも一因か、木樽さんは当時の斉藤一之監督からファースト転向を命じられた。とはいえ、入学した年の春からレギュラーになる実力があったわけで、1年生だった63年の夏、最初の甲子園出場を果たしている(※)。

(※当時の地方大会は千葉と茨城の高校が出場する東関東大会によって甲子園出場校が決まったが、同年は第45回の記念大会につき、千葉大会に優勝した銚子商が甲子園に出場した)

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