東大からプロ野球選手、イチローに打たれ二軍降格、ナベツネ・孫正義との出会い...小林至が振り返る波瀾の人生 (4ページ目)

  • 飯尾哲司●文 text by Iio Tetsuji
  • photo by Sankei Visual

── 同書がきっかけでソフトバンクに迎えられたと。

小林 ソフトバンクはダイエー球団を買収し、05年から球界新規参入が決まっていました。年明け早々の1月にソフトバンクの球団経営の勉強会に呼ばれ、初対面の孫さんは開口一番「面白い本だった!」と。勉強会終了後、「大学教員との兼務で構わないから、経営を手伝ってくれ」とフロント入りのオファーをいただき、球団取締役に就任しました。

── 球団フロントとしての10年間で、「常勝ソフトバンク」の礎を築きました。最初の5年間は経営戦略。後半の5年間は王貞治会長・秋山幸二監督の腹心のGMとして敏腕を振るいました。印象深い出来事を教えてください。

小林 05年からの前半の5年間は渉外の仕事を中心としたビジネス担当で、パ・リーグやNPBの仕事に注力しました。07年の「パシフィックリーグマーケティング設立」に携わり、「侍ジャパン常設化」を提唱しました。

 10年からの5年間は、チーム担当、つまりGMの仕事が中心になり、「選手補強」「三軍制」「成果報酬の年俸制度」を手がけました。10年のドラフトでは2位で柳田悠岐(広島経済大)、育成ドラフトの4位で千賀滉大(愛知・蒲郡高)、5位で牧原大成(熊本・城北高)、6位で甲斐拓也(大分・楊志館)を指名。三軍制を始めることを念頭に臨んだドラフトで獲得した3人が、レギュラーとして巣立ってくれました。

── 三軍を設置されたことは、のちのソフトバンク黄金期の大きなきっかけとなりました。

小林 私が現役時代の二軍は、一軍選手の調整の場であり、有望新人の育成の場でした。それ以外の選手はなかなか試合に出られないという、私の体験が役立ちました。王監督も「フォークや内角の厳しい球は、実戦でしか経験できない。若手選手たちにもっと試合経験の場を与える必要がある」と強調されていました。野球選手は成長予想が極めて難しいのです。米メジャー球団がなぜ300人近くの選手を保有するのか、あらためて言うまでもありません。

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