ルーキー原辰徳がセカンド→控えになった篠塚和典に長嶋茂雄が「腐るなよ」 巨人の安打製造機が振り返る救いの言葉 (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Kyodo News

【狙って首位打者を獲り「初めてミスターに恩返しができた」】

――長嶋さんの言葉があったからこそ、頑張ることができた?

篠塚 本当にそうです。ミスターにドラフト1位で指名してもらって以降、5年ぐらい経っているにもかかわらず恩返しができていなかったわけですし。勝負の年として臨んだシーズンも、ルーキーの原にセカンドのスタメン争いで後れを取る形になり......。

 シーズン開幕後も、チャンスがきた時には「必ずものにしなきゃいけない」という思いが強かったですが、ある試合でそのチャンスがきたわけです。

――1981年シーズン、篠塚さんは5月5日の中日戦で、同シーズン初のスタメン出場(2番・セカンド)となりました。

篠塚 5月に入って、中畑さんがケガで離脱してサードが空いて、原がサードに、僕がセカンドに入ったんです。最初の1、2試合くらいはあまり打てなかったのですが、その後の大洋戦でいきなり「3番を任せる」と。そこからですよね、打っていけたのは。

 それでも「そこそこ打っている」程度では、中畑さんが復帰したらまたスタメンで起用されなくなってしまう。だから、首脳陣やチームメイト、ファンの人に対しても、「中畑さんが復帰したとしても、篠塚は外せない」と思わせるぐらいの成績を残さなきゃいけないと思っていました。

――同年、篠塚さんは打率.357をマーク。わずか1厘差で首位打者の藤田平さん(阪神/打率.358)に届きませんでしたが、レギュラーを確固たるものにしました。

篠塚 中学時代から藤田平さんのバッティングを見て、「あんなふうに流し打ちができたらいいな」と思ってやってきましたから、藤田さんと首位打者を争えたのは大きな自信になりました。

 当時は「3年続けて打率3割を達成できたら、ある程度のバッターとして認めてくれる」という時代でしたが、実際に1981年から3年連続で3割を打つことができた。そして1984年は、首位打者を狙ってシーズンに入り、無事に獲得することができました。

 そこで、「初めてミスターに恩返しができたな」と。僕の指名に反対していた人たちに対しても、「『篠塚をドラフトで獲って間違いなかっただろう』と胸を張って言ってもらえるだろうな」という気持ちになりましたね。

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