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「嫌なら投げさせないよ」と松岡弘を脅した広岡達朗。強制ミニキャンプに今は感謝 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 翌75年には強打者の大杉勝男が日本ハムからトレードで加入、76年からは助っ人のチャーリー・マニエルも中軸に加わり、徐々に「78年の優勝メンバー」がそろいつつあった。が、チームは開幕から不振で荒川が5月に休養。ヘッドコーチの広岡達朗が代行を務め、6月から正式に監督になった。

 放任主義の荒川とは打って変わって、広岡は77年の春季キャンプから厳しい方針を打ち出し、酒、麻雀、花札、ゴルフ、ユニフォーム姿の喫煙、練習中の私語が禁止された。松岡さんによれば、「ベテランまで押さえつけられてみんな反発した」という。

 それでも投手では鈴木康二朗、野手では水谷新太郎、杉浦亨の成長もあり、チームは球団史上初の2位に躍進。手応えを感じた選手たちは、広岡への反発心でひとつにまとまっていた。ただ、松岡さんは9勝に終わり、二桁勝利が6年連続で途切れた状態で翌78年を迎えた。

「俺、その年は5月が終わるまでに3勝してた。でも、広岡さんが『おまえはこんなもんじゃない。もっと勝てる』って俺をおだててね。あの人には心技体の技を叩き込まれたんだけど...」

 はじめからずっと穏やかな表情だった松岡さんだが、眉間に深くシワを寄せて言った。

「広岡さんが言うにはね、体の使い方次第では、相手が余計に嫌がる、角度のある、キレのあるボールが投げられるって。だから『俺の言うこと聞け』と。でもこれ、自分がある程度、ピッチャーとしてできあがったときに言われたから、『嫌だ』と。腹ん中では『何言ってんだ、この野郎』と思ってたんだけど、『嫌ならいいんだ、投げさせないよ』って脅しをかけられてさ......」

 反発した松岡さんに対し、投手コーチの堀内庄(しょう)がフォローした。巨人で広岡と同僚だった堀内は「言うこと聞かねえと投げさせてもらえねえから、言うこと聞いたフリしろ」と助言。

 実際に言うとおりにすると、6月1日の中日戦で4勝目を挙げたあと、7月の頭まで1ヵ月間、故障でもないのに松岡さんの登板はなかった。文献資料には〈一軍に帯同したままミニキャンプを張らされた〉とあったのだが、それはいったいどういうものだったのか。

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