斎藤佑樹が追い求めた150キロと股関節痛「このケガがピッチャーとしての未来を変えてしまったとしても、それも僕の人生」 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

 あの時、スピードを上げるために考えていたのは、まず質量を上げようということでした。同じ150キロ でも、80%の感覚で投げられるようにするには質量を増やして出力を上げなければダメです。100パーセントで投げて球を速くするんじゃなく、気持ちよく、スッと投げて150キロが出たらいいなと......そのために筋量を増やしたかった。フォームに関しては、右ヒザを折って投げるのをやめなさいとずっと言われ続けていました。

 位置エネルギーが使えないからということでしたが、夏の甲子園で勝ったフォームでしたし、これをやめたらどうなるんだろうという葛藤はありました。僕は当時、バランスという言葉をよく使っていたんですが、とにかく力を抜いて、指にボールがかかるようなフォームを目指していた記憶があります。そのためには、ヒザを折って投げたほうがバランスはいいんじゃないかと思っていました。

【器用貧乏が生んだ弊害】

 今、あらためて大学3年の時のフォームを連続写真で見ると、気づくことがあります。胸のマークで比較すると、高校時代よりも右腕が早く前へ出てきてしまっているんです。しかもその時期、左足をステップする場所が2、3足分、左へ開いてしまっていました。

 本来、まっすぐ踏み出していたはずなのに知らず知らずのうちに開いていたというのは、股関節が痛かったからなんです。まっすぐ踏み出すと痛むのに、開くと痛みが出ない。だから右腕も早く出てきてしまうんですが、そうなると胸の大きな筋肉を使えなくなります。踏み出した左足の股関節の真上に上体を乗せて回るのと、真上から逃がしたところで回るのとでは軸が違う。真上で回そうとすると股関節が痛くて腕が早く出てしまうから、肩から先だけでコントロールしようとしてしまいます。

 当時はまだ胸椎の使い方を考えるような時代ではありませんでしたが、今、こうしてその頃のフォームの連続写真を見ると、胸椎から連動させる投げ方はまったくできていません。だから外側が詰まる感じがして、窮屈な投げ方になっていたんです。

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