斎藤佑樹が追い求めた150キロと股関節痛「このケガがピッチャーとしての未来を変えてしまったとしても、それも僕の人生」
斎藤佑樹が大学3年になろうかという2009年の春、日本中がWBCの連覇に沸き返っていた。決勝の韓国戦、この大会で結果を出せずにいたイチローが勝ち越しの決勝タイムリーを放つ。その時の日本代表に、同い年の田中将大が選ばれていた。
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【150キロを追い求めたワケ】
大学1年の時、チームとしてこれ以上はないという結果が出て、大学2年はピッチャーとしての数字もよかった。いま思えば3年というのは微妙な時期だったと思います。あの時に「今の自分でいいんだよ」と思わなくちゃいけなかったんですよね。プロと大学とでは比較のしようがないじゃないですか。何をもってプロと比較したらいいのかは、経験しなければわかりません。経験できないことなのに今の枠で収まっちゃいけないと、思う必要はなかったと思います。
実際、当時の東京六大学のレベルは高かったと思います。3、4番の選手とか、1番バッターとか、プロで活躍してもおかしくない選手は多かった。そういう選手たちをコンスタントに抑えられればそれでよかったし、圧倒的に抑えようとか、そんなふうに思う必要はなかったんです。
もちろん、その頃もピッチャーとしてはマー君(田中将大)のほうが上だと思っていました。それでも、バッターに打たれないということを考えた時、僕がプロのマウンドに立っていない以上、そこは未知数だとも思っていました。変化球には自信がありましたし、もしかしたら僕のほうが打ちにくい球を投げている時もあるかもしれないと思ったこともあります。
ただ、周りから比較されることが多かったので、自分なりに現在位置をわかりやすく示せる数字が欲しかったんでしょうね。それが"150キロ"でした。高校時代の最速が149キロで、150キロにあと1キロ足りないこの数字が僕にとってはずっと壁でした。
夏の甲子園が終わってリセットしたあと、大学で新しい自分としてスタートした結果、スピード以外の部分ではすべて上回ることができたのに、150キロだけが出せない。あとはスピードだけだったんです150キロを1回でも出せば"150キロ超え"と言われるじゃないですか。それは相手を圧倒する材料になりますから、そのためにスピードを上げたいと思っていました。149キロというのはただの数字だと捉えればよかったのに、そういうふうには考えられませんでした。
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著者プロフィール
石田雄太 (いしだゆうた)
1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。