プロ野球選手から新聞記者になり、球団幹部になった広野功の野球人生 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 69年10月8日の新聞報道をきっかけに、八百長騒ぎの"黒い霧事件"が起きた。翌70年にかけて新たな事実が次々に発覚し、球界初の永久追放選手を出すまでになったが、その発端は西鉄の一投手だった。チーム内で八百長に関するさまざまな噂が流れ、広野さん自身、野球に対する気持ちが冷めていった。

「試合中にスタンドから『八百長』と言われる。打っても『八百長』、三振しても『八百長』。もう情熱が消えかかる、というときに巨人にトレードになったんです」

 西鉄の投手4名が永久追放になり、監督の稲尾和久は巨人監督の川上哲治に「ピッチャーを譲ってほしい」と打診。交換条件として川上が挙げた名前が「広野功」だった。そして1971年シーズンを前に、巨人の投手3名と、広野さんを含む西鉄の野手2名とのトレードが成立する。

「巨人で川上さんに出会って、僕の心が一新されたんです。敵で見ていた川上監督はタヌキオヤジ、クソオヤジだったのが、直接会ってみると、とんでもない大監督でした」

 キャンプ初日、広野さんは川上に呼ばれた。チーム状況とトレードで獲得した理由、チームでの役割と起用法に関して説明を受けた。「オレはおまえを代打として使う。そのためにどうやれるか、ということを、マンツーマンでコーチつけるから勉強して、技術を身につけてほしい」と川上は言った。

「僕はもう感動しました。そんな監督、いないわけです。普通だったら、がんばれよ、で終わりです。当時、巨人は6連覇していましたが、毎年勝ち続けるチームの監督はこういう人がなるんだと実感しました」

 意気込んだ広野さんだったが、現実は二軍始動、開幕後もそのままだった。が、くさらずに二軍戦10試合で4本、5本と本塁打を放つと一軍に呼ばれた。代打での移籍後初打席はセンターライナーに終わり、試合にも負けたが、チームのみんなが「惜しかった。ナイスバッティング」と声をかけた。

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