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上重聡が最初に覚えた立教大野球部の寮則は「長嶋茂雄さんがテレビに映ったら、正座をしてこんにちはと言え」だった (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Ichikawa Mitsuharu (Hikaru Studio)

── PL学園での上重さんは、松坂大輔投手のいる横浜と夏の甲子園で延長17回の死闘を繰り広げました。甲子園で優勝することを目指した高校3年間を経て入学した立教大学の雰囲気にはどんなことを感じたのでしょう。

上重 いろんなところに凄まじいギャップがありましたね。1年春のリーグ戦で立教は開幕から8連敗を喫したんです。でもその試合後のミーティングが「明日も頑張ろう」だけで終わったんです。「えっ、それだけ?」と本当にビックリしました。PLでは"負けイコール死"を意味する空気が当たり前でしたから、8つも続けて負けてもスーッと次の日を迎えられる空気に麻痺していく自分が怖くなりました。

── それでも上重さんが1年の秋にはリーグ戦で優勝を果たしています。開幕8連敗の春から秋に優勝......何があったんですか。

上重 8連敗したシーズンを終えて、今までのレギュラーを撤廃することにしたんです。夏の紅白戦の成績を寮の廊下に貼り出して、結果を残した選手が試合に出ることになった。そうしたら1年で抜擢される選手が出てきたり、キャプテンが外されたこともありました。情を一切排除した実力主義で臨んでの優勝だったんですが、結果を残せなかった私にも登板機会は与えられませんでした。

【東京六大学史上2人目の完全試合】

── それでも上重さんは、2年の秋には東京六大学史上2人目の完全試合を達成します。順調な大学生活だったように見えます。

上重 そこだけ切りとるとそう見えるかもしれませんが、私、ピッチャー失格の烙印を押されていたんです。1年の秋には登板機会がなく、2年になっても期待に応えられなかった。2年の春、私は日大とのオープン戦で(村田)修一に満塁ホームランを打たれるなどして13失点。その試合で右バッターの頭にデッドボールを当てて、投げるのが怖くなってしまいました。それで春のリーグ戦は外野手として試合に出ていたんです。

 でも、守備位置や打席からほかのピッチャーを見ていたら、すごいボールを投げるピッチャーがゼロで抑えるわけじゃないことに気づいたんです。そうか、(松坂)大輔みたいなすごいピッチャーにならなくても打ちにくいピッチャーになればいいんだと発想を転換したら、2年秋のシーズンにピッチャーとしてうまく入っていけました。5勝を挙げたそのシーズン、最後の東大戦で完全試合を達成することができたんです。

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