わずか2年で広島を戦力外となった鈴木寛人は、今も「イップス」と闘いながら再びマウンドを目指す (3ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual、Kikuchi Takahiro

 一進一退の日々だったが、1年目の後半には、少しずつ症状が改善されていく実感があった。 

「コーチからもアドバイスをいただいてフォームを直していったら、だんだん指にボールがかかるようになっていったんです」

 10月31日にはウエスタン・リーグ(中日戦)で初登板。1回を投げ、被安打2、与四球1、失点1。内容はともかく、まずはプロ野球選手としての第一歩を踏み出せたことに鈴木は安堵した。

 だが、鈴木の行く手にはさらなる試練が待ち構えていた。

2年目はイップスがさらに悪化

 シーズン終了後に若手の教育目的で開かれる宮崎フェニックス・リーグ。鈴木は5回の登板を重ね、「そんなに悪くないな」と大崩れすることはなかった。だが、11月28日のヤクルト戦でイップスが再び顔をのぞかせる。

 捕手が手を伸ばしても届かない方向へ、ボールが抜けていく。もはや制御不能だった。プロの投手とは思えないボールが、マウンドから散っていった。

「あの日はちょうどテレビカメラが来ていて、中継されていたんです。醜態をさらすのは恥ずかしいですし、正直言って『替えてくれ』という思いもありました。チームが勝つために、自分がしっかり投げなくてはいけないのに......。でも、こういう場所でしか克服できないのだと投げ続けました」

 自分自身へのふがいなさ。首脳陣やチームメイトへの申し訳なさ。多くの野球ファンにイップスが知られる恥ずかしさ。さまざまな思いがあふれた。鈴木はイニング途中で交代を告げられ、マウンドを降りた。

 1年目が終わった段階で、鈴木は「このままだったら、来年で終わるな」と悟った。自分のボールが通用せず、打たれてクビになるならまだわかる。だが、鈴木はそれ以前の問題だった。

「どんな選手でも、ケガさえなければファームで投げられるじゃないですか。自分はそんな入口にも立てない状態だったので。誰のせいでもなく、『自分の責任だ』と自分を責めていました」

 コーチやスカウトは、親身になって鈴木に声をかけてくれた。そんな気遣いも、鈴木には「なんでこんなに迷惑をかけている自分を気にかけてくれるのだろう」と、罪悪感を増幅させた。

3 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る