松永浩美が学んだ、阪急の黄金時代を築いた上田利治の野球論。負けん気は強いが、選手やコーチに対しては「忍耐」の監督だった

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――戦術にも長けていて、「ギャンブルスタート」は、1点をもぎ取るために上田監督が編み出した走塁の戦術とも言われています。

松永 私が阪神やダイエーにいた時にはなかったですが、阪急の時は走者が三塁にいる時はよくサインが出ていました。練習でもよくやっていましたね。

 あと、「相手にこんな野球をやられるかもしれない」と予測しての練習もしていました。例えば、「こんなバントのシフト、絶対に試合で使わないだろう」といった練習もするんです。そのシフトは、通常の試合ではほとんど使いませんでしたが、1984年シーズンの優勝を争っている大事な試合で実践して成功した。いざというときのために練習しておくことの大切さを痛感しました。

――上田監督の印象的な場面といえば、1978年のヤクルトとの日本シリーズにおける1時間19分におよぶ抗議です(ヤクルト・大杉勝男が放ったレフトポール上を通過した打球がホームランと判定されたことに抗議)。やはり勝利に対する執念はすごかったですか?

松永 とにかく"負けたくない"人でしたね。4、5連敗くらいすると上田さんがコーチや選手たちを集め、ミーティングの冒頭で必ず「俺は負けたくない!」「試合を終わった後に、みんなでハイタッチをしたいんだ」とよく言っていました。意気込みなどをストレートに伝えるので、弱気になっていた選手たちは奮い立っていましたね。

――上田監督の野球をひと言で表現するなら?

松永 忍耐の「忍」かな。怒ることや感情が昂(たかぶ)ることはありますが、選手の育成や起用に関してはしっかり我慢する印象がありました。試合でミスをした選手を、次の試合ですぐに起用したり。私は若手の頃、内野を守っていてエラーも多かったんですが、「お前は使い続ける。お前がもしダメだったら、俺も監督を終わる時だから」と言ってくれたこともあります。コーチ陣を信用していて一切否定しなかったのも「忍」と言えるんじゃないかと思います。

――松永さんの野球人生にとって、上田監督との出会いはどんな意味があるものでしたか?

松永 松永浩美という野球人の生みの親、育ての親であることは間違いありません。監督と選手がプライベートで行動を共にすることはあまりないんですけど、上田さんの家に遊びに行ったり釣りに行ったりしたこともありますし、いろいろと可愛がってくれました。野球のことは、私がよっぽど調子の悪い時くらいしか話しませんでしたね。

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