斎藤佑樹が「本当にショックだった」日大三高戦。自信の投球が痛打、力不足だと認めざるを得なかった
高2の夏、斎藤佑樹は早実の背番号1を託された。3年の高屋敷仁ではなく2年の斎藤に1番を背負わせた理由を、和泉実監督は「斎藤と高屋敷の関係を逆転させることで、斎藤の自覚と高屋敷の悔しさから生まれる化学反応に期待した」と話していた。
2年生で早実のエースになった斎藤佑樹だったが...左は主将の武石周人この記事に関連する写真を見る
芽生えた背番号1の自覚
化学反応ですか......どうなんでしょう。自分ではわかりませんが、でも今となっては、やっぱり(和泉)監督は僕たちのことをよく見てくれていたんだなと思います。そもそも僕は反骨心というものがあまりないというか、表に出すのが苦手なんですよ。悔しくて何かをやってやろうとか、絶対に見返してやる、みたいなことはあんまり感じないです。
でも高屋敷さんにはきっとそういう反骨心があったんだと思います。だから1番を僕に、というのは、「なるほどな」と思いました。反骨心はなくても、僕にも1番の自覚は芽生えます(笑)。僕が東京の夏をひとりで投げ切って、甲子園をつかみ取るんだという使命感は持っていました。
高2の夏は......完封した準々決勝(日野台戦)の記憶はあります。神宮第二球場での試合は日曜日でお客さんがぎっしりだったんじゃなかったかな(2005年7月25日)。のちに監督は「初戦(3回戦)の拓大一、(5回戦の)東海大菅生との試合はダメなほうの斎藤が出た」と話していたそうです。「立ち上がりはいい感じで投げているのに、突然、崩れるんだよ」って......でも僕はその2試合でどんなピッチングをしたのか、まったく覚えていません。
昔から忘れたい記憶は自然と消すことができるんです(笑)。だからいいピッチングをした日野台との試合は何となく覚えています。ストライク先行でテンポよく投げられた。三振もとれて、ホームランも打たれなかった(8ー0、7回コールド)。
監督は「今のおまえが持っているあらゆるものが出せたら、どんな相手でもこのくらいのピッチングはできるんだよ」と言ってくれました。僕も日野台だろうと三高(日大三)だろうと関係ないと思っていましたし、なにより自分自身がいい状態で準決勝に進むことができたので、三高を抑える自信はありました。
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