松井秀喜は「天敵」を攻略。元巨人スコアラーが明かす名選手たちへの助言と「投手の癖が一番出やすいポイント」

  • 白鳥純一●文 text by Shiratori Junichi

三井康浩さんインタビュー 前編

 1978年にドラフト外で巨人に入団した三井康浩氏は、その約5年半後、病気のために志半ばで現役引退を余儀なくされた。しかし1986年から裏方に転身し、スコアラー、統括ディレクター、編成など、約40年間にわたって常勝球団・巨人を支え続けた。

 そんな三井氏に、スコアラーとしてキャリアを歩むことになったこれまでの人生や、松井秀喜vs遠山奬志、清原和博や高橋由伸などとのエピソードを聞いた。

1999年、阪神のリリーフ・遠山(左)を打てなかった巨人・松井だったが...... photo by Sankei Visual1999年、阪神のリリーフ・遠山(左)を打てなかった巨人・松井だったが...... photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る***

――巨人で野手としてプレーされていた当時を振り返っていただけますか?

「選手としては5年半ほどプレーさせていただきました。プロ5年目の1984年シーズンには、『50番トリオ』と呼ばれていた駒田徳広、吉村禎章、槙原寛己といった若手選手と一緒に一軍に上げてもらう予定だったのですが、そのタイミングで受けた健康診断で腎臓肋膜炎が見つかってしまって......。選手をやめざるを得なくなってしまいました」

――その後、どのような経緯でスコアラーに転身されたんですか?

「1986年シーズンに二軍のサブマネージャーとして"裏方"のキャリアが始まったのですが、1年目は本当にキツかったですね。この年から二軍監督に就任した須藤(豊)さんは、試合を終えると毎晩のように飲みに行く方で......。それにつき合って、終わるのは夜中3時頃。当時は『朝7時前にはグラウンドに入っておくように』と言われていましたから、ほとんど寝る時間がない日々が続きました。そんなこともあって、翌年にスコアラーとして異動が決まった時は嬉しかったですね(笑)」

――スコアラーに抜擢されたのは、三井さんが相手の癖を盗むのが得意な選手だったからですか?

「そうではありません。現役時代は、自分でスコアブックもつけられなかったですし、配球もまったくわからなかった。元プロ野球選手が言うのはおかしいですが、"素人同然"だったんですよ」

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