ヤクルトの2000年ドラ2位投手、鎌田祐哉が振り返るプロ入り秘話と試練続きだった現役時代 (5ページ目)

  • チャッピー加藤●文 text by Chappy Kato

地元の後輩・石川雅規から受けた刺激

 2年目の2002年は11試合に登板し、9試合に先発。チャンスはもらったが、フォーム変更など試行錯誤が続き、3勝2敗という成績に終わった。当時を鎌田は「いろんなところを直したり、あれこれ試しても結果が出なくて、精神的にもキツかったですね」と振り返る。

 ただこの年は、ひとつ励みになることがあった。同じ秋田市出身で、小・中学校の1年後輩だった石川雅規がヤクルトに入団。1年目から先発ローテーションに加わり、12勝を挙げて新人王に輝いたのだ。

「小さい頃から知ってる仲ですし、私が大学3年の時には、大学選手権の決勝で青山学院大の石川と投げ合ってますからね(青学大が勝利)。彼と一緒に先発ローテに入って、大いに刺激を受けました」

 転機になったのが、3年目の2003年だった。最初は中継ぎでスタートし、好投が続くと、途中から先発に復帰。「自分は前もうしろも関係なく、任されたところで全力を発揮しようと、ただそれだけを考えていた」という鎌田は、この年は30試合に登板。先発が15試合、中継ぎが15試合とちょうど半々で6勝7敗。後半はローテーションに定着し、完封勝利も2度マークした。

 しかし、ここから再び試練が訪れる。2004年は先発として期待されながら、不振に陥り1勝3敗。2005年は故障で一軍登板を果たせず、2006年に3勝を挙げたのを最後に白星から遠ざかることに。そしてプロ10年目の2010年、鎌田はシーズン途中の6月に、楽天へのトレード通告を受ける。

「その前にもトレード話が新聞に出たことがあったので、覚悟はしてました。編成から打診もありましたし、『やっぱりな』という感じでしたね」

その頃、すでに結婚していた鎌田は、単身赴任の形で仙台へ。

 移籍した年の楽天はマーティー・ブラウン監督が指揮を執り、翌2011年は星野仙一監督が就任。しかし一軍登板の機会は巡ってこないままファーム暮らしが続き、10月、ついにその時が訪れた。プロ11年目、32歳で初めて経験した「戦力外通告」。

「トライアウトを受けて、ダメなら野球をやめて就職しよう」と決意した鎌田。その時、携帯が鳴った。

※敬称略

(後編:不動産業で積み上げてきた信頼と実績。1年後輩の石川雅規の活躍も刺激に>>)

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