「頭のどこかで将来は医者を目指すだろうと...」そう思い続けていた元プロ野球選手・寺田光輝の壮絶半生 (4ページ目)
寺田 選手はケガをしても大抵は「痛くない」ってウソをつきますからね。才能のある選手はそれだけ舞台も大きいでしょうし、期待を受けますから無理をしなきゃいけないことも多いでしょう。ただ僕の場合は、小・中・高・大とずっと控え投手だったんですけどね。
石川 それは面白いですよね。だけど、そこからプロに入るんだから夢がある。
寺田 そう思っていただけるとうれしいですよね。別にレギュラーじゃなくてもプロにはなれますから。
石川 でも、どこかでグンと急成長したということなんですよね?
寺田 高校は背番号1だったんですけど、エースが大会前にケガをして回ってきたもの。大学は"試合を出られること"を最優先に、地元の三重大学に進んだんですけど、ここでも145キロぐらい投げる同級生が2人いて、僕はせいぜい130キロ。やっぱりレベルの違いに打ちのめされて2カ月で中退しました。
石川 でもそこからまた野球をやるために筑波大学に受験される。その時点で最終的にプロになるというプランはあったんですか?
寺田 筑波大に行く前はウダウダと悩んでいたんですけど、いざ行くと決めた時には「絶対にプロ野球選手になるんだ」と決意していました。ただ、プロにはなりたいけど、可能性はそんなに高くないわけです。なので、ダメだった時のためにいいところへ就職できそうというのも、筑波大を受験する後押しになりました。
石川 なるほど、そこはかなり打算もあったのですね(笑)。ただ、三重大、筑波大とも医学部じゃないってことは、医者になりたいという思いよりも、プロ野球選手への思いが断然勝っていたんですね。
寺田 そうですね。でも結局地元の銀行に就職が決まっていたのに、それを辞退して野球をやるためにBCリーグの石川ミリオンスターズに入団してしまうんですけど。
石川 安定した銀行員の座を捨てて、独立リーガーになったわけですね。食べていくのがやっとという話を聞きますが、当時はどんなモチベーションで自分を奮い立たせていたんですか?
4 / 5