大学の野球部退部→アメフト部→畳職人→NPB。元日本ハム投手が歩んだ奇妙な野球人生 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual

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 小学4年生で野球を始め、小中高と地元で野球を続けたものの、華々しい戦績とは無縁。高校は近所の公立校・八戸西に進んだ。中村が最上級生になってからの公式戦最高戦績は2回戦だった。

 高校2年の冬には「140キロを出してプロに行きたい」と一念発起して猛練習に励むも、2月の寒い時期に全力投球したことがたたって左肩を痛めてしまう。その後、青森大の2年まで肩痛は治らなかった。

 それでも、進学した青森大の石橋智監督(現・黒沢尻工監督)からは一定の評価を受けた。日頃から頻繁にジョークを飛ばす石橋監督は、中村に「おまえ、いずれは韓国プロ野球でやれるよ!」と賛辞を送ったという。中村は「なんで日本じゃないの? と思いましたけど」と苦笑交じりに振り返る。

 全国的に見れば、青森大は名門といえるようなチームではなかった。ただし、同期には全国区のスターがいた。のちに自由獲得枠で西武に入団する細川亨である。石橋監督に言わせれば、「二塁に10球投げれば、10球全部ストライク送球できる」という正確無比な強肩を武器にする捕手だった。

 ただし、肩痛に苦しんでいた中村とはバッテリーを組む機会も少なく、中村は「細川が入学時からすごかったのは間違いないんですけど、何かエピソードがあったかというと覚えてないんですよね」と頭をかく。

 積年の肩痛が癒え、Aチームに加入し、さあこれからという時期。大学3年春のシーズンを終えた段階で、中村は突然、野球部を退部してしまう。「故障のため」という理由が流布されているが、真相は違った。

「当時のコーチの方と考え方が合わなかったんです。いま思えば、僕の心が幼稚でしたし、我慢も必要だったなと思います」

 青森大には中村のような県内出身者だけでなく、関東や関西からも選手が入学してくる。コミュニュケーション能力が高く、自己主張できる県外出身者に対して、中村は「どうせ俺なんて田舎者だし......」と引け目を感じていた。結局、公式戦で登板することもなく、中村は退部している。

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