パ・リーグDH誕生秘話。それは世界一の代打男の執念と技術から始まった (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 この記事が「きっかけ」のひとつになり、気運が高まり、検討を重ねたパ・リーグは11月18日のオーナー懇談会、翌75年からのDH制の採用を決めた。高井のクセ盗み技術が、DHの効果を知るアメリカ人記者の心を動かし、プロ野球を変えるまでに至ったのだ。

 ただし、<試行期間を2年間>としていたことは特筆しておきたい。現在の巨人が暫定導入を提案しているのと同様、当時のパ・リーグも永久的に導入したわけではなかった。球団を経営する側が賛成でも、新制度を歓迎しない反対派の選手もいることが考慮された面もあったようだ。

 守備の巧拙に関わらず、守りで体を動かさないことが打撃に悪影響を及ぼす、と不安がる選手がいた。同年、7度目の首位打者に輝いた張本勲もそのひとりだった。投手にしても、ピッチングに集中できる半面、「投手の打席で息を抜けなくなる」という声も出ていた。それでも、9人攻撃の野球で人気を挽回し、観客動員を増やしたいリーグの事情が優先された新制度がスタートする。

 75年4月5日の開幕戦、パ・リーグ球団のスタメンに6人のDHが初めて名を連ねた。阪急は高井ではなく長池が務め、価値あるタイムリーと1号本塁打を放つ活躍で勝利に貢献したが、反対派の長池はかねてから<打撃は一流、守りは三流>と酷評されており、DH候補に挙げられたあと、キャンプでは反発するように必死に守備練習に取り組んでいた。試合後には「野球をやっている気がしないんだ。何だかやりにくいよ」とこぼしている。

 導入から46年が経過し、もはや今のパ・リーグに長池のような選手はいないだろう。だが、46年分の経験がないセ・リーグの場合、いないとは限らない。交流戦でDHがあるとはいえ、あくまでも一時的なものだ。慣れるまでには相当の時間がかかる、と考えて、もしも導入するなら短期の暫定ではなく、74年のパに倣って長期の"試行期間"を設けるのが得策ではないか。

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