落合博満、工藤公康、山﨑武司...「アラフォー移籍」で大活躍した男たち (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • phoho by Sankei Visual

 すると移籍1年目から25本塁打を放ち、名将・野村克也監督のアドバイスなどもあって、39歳となった3年目には凄まじいペースで本塁打を量産。自己最多となる43本塁打、108打点で2冠王を獲得する。最後は古巣の中日に戻ってユニフォームを脱いだが、楽天移籍後に通算本塁打(403本)の半分近い192本塁打(楽天で191本、中日で1本)を放つなど、「アラフォーの希望」と呼ぶべき打者だった。

 一方で、通算404本塁打を誇る中村紀洋のように、単純な移籍ではなくさまざまな紆余曲折があった例もある。近鉄では"いてまえ打線"の象徴的存在として君臨。しかしメジャー挑戦を経た2006年オフ、オリックスとの契約交渉がまとまらず、翌年1月に自由契約選手になった。

 そんな中村に、中日からテスト生でのキャンプ参加の声がかかり、育成枠での入団が決定。オープン戦で結果を残し、リーグ開幕直前に支配下選手契約を結ぶと、出場機会を増やして2年連続20本塁打以上をマーク。2007年には日本シリーズMVPを獲得する大活躍を見せ、そのヒーローインタビューでは大粒の涙を流した。

 2008年にFAで移籍した楽天では、2年目のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団すると、獲得する球団が現れずに "浪人"生活へ。横浜が2011年5月に獲得を発表した際には38歳だったが、2年目には開幕直後から主軸として活躍し、8年ぶりにオールスターにも出場。その第1戦で逆転の決勝2点本塁打を放ち、史上5人目となる両リーグでのMVPを獲得した。

 2013年には史上43人目となる2000本安打を達成したものの、翌年には首脳陣との"いざこざ"もあって戦力外通告を受ける。その後はNPBの球団からのオファーはなかったが、退団するごとに球界をザワつかせた稀代のスラッガーとしてファンの記憶に残っている。

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