1977安打で引退のスラッガーが「あと23」に執着しなかった真相 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 ゴロでも一塁まで全力で走った結果として、新たに水原茂監督が就任した61年の4月から62年8月にかけて、毒島さんは900打席連続無併殺打のパ・リーグ記録を作っている。この数字は2001年に金本知憲(広島)に破られるまで日本記録だった。

「その記録は知らなかったですけど、そういえば、確か水原さんに言われたことあったですね。『おまえ、ダブルプレーがないから安心してられるよな。1人残すからなあ』って。でも、わたしは別に、誰かに言われて走ってたんじゃないんです。ただ楽しいからね」

 再び「楽しい」が出てきた。これは野球そのものが楽しい、ということなのだろうか。

「走るのが楽しい。陸上競技やるにしろ、なんにしろ。短距離が好きだったですね」

 俊足、守備での強肩も含め、自身の身体能力を発揮できることが「楽しい」のだ。しかしそのわりに、毒島さんの場合は盗塁が多くない。だいたい年間に10個台だったのはなぜか。

「ふふっ。走んなかったんです。くたびれるからね、サイン無視して走んないんです。水原さんにも言われましたもん。『おまえ、オレがサイン出しても走んねえな』っつって。あっはっは。失敗したような顔してね、スタートを」

 想定外の理由に笑うしかない。盗塁は有効だとは思っていなかったのだろうか。

「いや、有効だと思ってましたけど、あんまり意識して『盗塁しよう』って気がなかったから」

 首脳陣に従わない話が続き、「走るのが楽しい」と言いつつ、三塁打は狙っても盗塁には気が向かず、向かない理由もはっきりしない。若くして主将になり、任命した岩本義行はじめ各監督の信頼が厚く、誠実で真面目な選手だったことを踏まえると、意外過ぎて頭がくらくらする。

「だけど、考えてみりゃ、盗塁のサインなんか、出たのは水原さんが来てからです。井野川(利春)さん、岩本さんの頃はなかったんですよ。いろいろ細かいね、フォーメーションなんかをキチッと決めたりすることも」

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