1977安打で引退のスラッガーが「あと23」に執着しなかった真相

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第11回 毒島章一・後編 (前編から読む>>)

 ファンの記憶も薄れつつあるなか、「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。"駒沢の暴れん坊"と呼ばれた荒っぽいチームの人望ある主将だった毒島章一(ぶすじま しょういち)さんは、通算1977安打を打っている。区切りの2000本まで、あとわずか。いかにも惜しく思われる数字が途切れた真相が、淡々とした口調で明かされた。
 
毒島章一の打撃フォーム。俊足好打で二塁打、三塁打を量産した(写真=時事フォト)毒島章一の打撃フォーム。俊足好打で二塁打、三塁打を量産した(写真=時事フォト)
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 俊足も生かして1年目の1954年から100試合以上に出場した毒島さんは、打率.264。翌55年には規定打席に到達して.298、三塁打を12本も記録。初めて3割を超え、打率リーグ3位につけた57年には三塁打が13本でリーグトップとなり、サイクル安打も達成。以降、61年、62年、66年と計4回も"三塁打王"になっている。やはり、足が速いからこそ三塁打を狙えたのか。

「そうなんですよ。だいたい、外野の間を抜く打球が多かったですからね。当時は外野の守備位置が全体に浅かったということもあります。それと、あんまりコーチャーのね、意見を聞かずに走ってたもんですからねぇ、へっへっへ。打って、走ってて、初めっからもう自分で行くつもりでいますから。ちょっと外野がもたつきゃあ、サッと行くというような。躊躇せずにね。

 それに、あの当時はそういう、走る選手が少なかったです。内野ゴロっつったらファーストまで走んない、外野フライ上がったら走んない選手が多かったんですよ。だからわたしは、行けるチャンスが多かったんですね。ゴロでも走ったですから」

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