2020.01.17

5連打で0点、3連続三塁打…。
バルボンが覚えていた阪急の珍プレー

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki


 88年オフ、広島が中南米遠征を行なった際、バルボンさんは臨時通訳としてチームに帯同。キューバに立ち寄ると元気だった3人の兄に喜ばれた。が、その兄も他界し、家族がいなくなった今、母国は帰る場所ではなくなった。悲しい話だが、まさに日本の家族に支えられ、救われたのだ。

「ホンマに。今はもう沖縄から北海道まで、どこでも行ったら必ず友だちいっぱいおるし。ボク、野球やめてから40年以上になるけど、今でも街行ったら、ほとんどボクの顔知ってるし。最高と思うわ。だからホンマ幸せや、ボク。解説もナンボでもやったことあるし、映画も出たことあるしな。ヒャッハッハ。これ以上もうないわ!」

 胸一杯に溜めていた息をすべて吐き出すようにして、声に力が込められていた。現役引退後、バルボンさんは神戸にピザのお店を開いた。それから8年が経って、阪急の上田利治監督からコーチ就任を要請される。2年間、務めた後、76年から通訳となった。

「マルカーノ、ウィリアムス来て、通訳やることになったんや。そのあと、ブーマーも来て。通訳は20年近くやったんとちゃうか。でも、これ、今でも言われるわ。『お前、選手こんなこと言うとるのに、違うこと訳してんのちゃうか?』って。ハッハッハ」

 やはりファンキーな部分はあったようだが、バルボンさんが通訳を担当した時代、阪急は助っ人の活躍が目立った。ボビー・マルカーノはコンスタントに3割前後の打率と20本塁打以上を記録し、78年は打点王獲得。75年から8年間、阪急でプレーした。また、外野手のバーニー・ウィリアムスは75年の来日から6年連続で二桁本塁打。さらにブーマー・ウェルズは84年に三冠王を獲得している。彼らが日本に順応する過程、通訳以上の存在になっていたのではないか。

「同じ通訳でも、できたら野球少し知ってる人、もっとやりやすいと思うね。ボク、選手で10年ぐらいやったし、日本のことも、野球のことも、よう知ってたから、やりやすい選手、多かったと思うわ。だいたい相手のピッチャー、特徴わかるしね。『このピッチャー、3球のうち、こんなボール絶対ほうってくる、勝負のボールこれ』言うたら、打ちやすいしな」