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5連打で0点、3連続三塁打...。
バルボンが覚えていた阪急の珍プレー (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 これは55年5月21日の対近鉄3回戦。阪急先発はエースの梶本隆夫だったが、初回4失点でKO。直後の2回表、阪急はまず8番・河野が三塁線を抜くと、梶本をリリーフした9番・原田、1番・バルボンさんも右中間を破って3連続三塁打。その後も猛攻が続いて一挙6点を取り、結局、9対5で阪急が勝った。それにつけてもバルボンさんの記憶力はすごい。これも野球センスにつながっていたのでは、と思える。

「で、ボク、三塁打王、2回なったんや。外野の間に打ったら、足速かったからね。もちろん狙っては打てないけど、やっぱり、一度、外野の肩、考えるわな。ボク、いつも試合始まる前、内外野の選手、どんな肩してるのかな、と見てた。当時、みんなほとんど見てないわ。肩強いか弱いか、そのぐらい試合始まる前に見たらいい、いう気はしてたわな。そのほうがあとからやりやすいと思ってたわ。昔の球場、狭いとこ多かったしな」

 プレーのみならず、準備に関しても抜け目のない選手像が浮かんできた。しかしそんなバルボンさんでも、帰国できなくなるという苦難を乗り越えるのは大変だったに違いない。キューバ革命が起きたときの、母国への思いはどうだったのか。

「いや結局、革命あった年もね、帰る予定やったよ。でも、飛行機、飛ばへんかった。だいたい3〜4年ぐらいな。ほな、帰られへんわ。ホンマに帰りたかったけど、結局、飛ばへんや。飛ばへんかったら、帰られへんちゃうか? ハッハッハ」

 笑顔は絶やされていないが、帰国のための空路が遮断された事実だけが繰り返された。当然ながら、あまり当時を思い返したくないのだろう。資料によれば、バルボンさんは62年に日本人女性と結婚。やがて女の子が産まれた。家庭を持つと決めたときには日本で生きていく覚悟があったのだろうし、家族の支えがあって後の野球人生を全うできたのだとしたら、それは幸せなことだ。

「幸せよ、ボク。日本来てよかったよ。向こうにおったら、今頃、死んでるかわからへんな。ハッハッハ。それでね、88年か、30年ぶりにキューバ帰ったよ。うれしかったけど、何もなかった。一緒に野球やってた友だち、生きてる人もおったけど、死んでる人もおった。今はね、帰ろうと思ったらいつでも帰れる。でも兄弟みんな亡くなって、残ってるのボクだけ。甥はいっぱいおるけど、ほとんど顔知らんわね。もちろんお父さんとお母さんも亡くなってる。今帰ってもしゃあないわ」

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