工藤公康は肉離れを隠して先発。全力疾走で「ブチ」と不穏な音がした (3ページ目)
【シリーズ直前に左足ふくらはぎを肉離れしていた】
――1993年の工藤さんは最高勝率、最優秀防御率のタイトル、リーグのMVPも獲得しています。それでも、「オレがエースだ」という思いはなかったんですか?
工藤 ないですね。一生、エースにはなれないと思っていました。一時期、「左のエース」と呼ばれたこともあったけど、「エースに右も左もないよ」って思っていましたからね。もちろん、目の前の試合には責任を感じながら投げていたけど、「オレがエースだ」と自覚してプレーしたことは一度もないです。
――さて、1992年シリーズについて伺います。ペナントレースでは11勝5敗という成績ながら、シリーズでは第6戦の先発のみの登板となっています。これはどうしてでしょうか?
工藤 左足の肉離れです、ふくらはぎの。
――この肉離れは、いつ発症したものですか?
工藤 えーと、日本シリーズに向けて練習をしていたときですね。シリーズ直前だったので、マスコミには発表せずにいました。
――それでも、3勝2敗で日本一に王手をかけた第6戦に先発登板します。この時点で、なんとか投げられる状態まで回復したのですか?
工藤 していないです。シリーズ直前にふくらはぎの肉離れを起こしたのに、すぐに投げられるわけがないですからね。でも、あの頃は「投げられません」とは言えない時代ですから。神宮のビジターのクラブハウスで、痛み止めの注射を打ってもらいながら投げましたよ。
――結局、この日は2回1/3を投げて2失点で降板となりました。
工藤 まぁ、よく投げたと思いますよ。だって、この日の試合中にも「ブチ、ブチ」って切れていましたから。
――試合中に新たに故障したのですか?
工藤 (2回表)ワンアウト満塁で打席が回ってきたんです。それでショートゴロを打って、ゲッツー崩れで1点を取ったんです。一塁への全力疾走の途中で、「ブチ、ブチ」って音が自分でも聞こえました。まぁ、切れたと言っても小さい筋肉だったし、痛み止めを打っているから痛くはないんで、そのままマウンドに上がったけど、試合後は大変でしたね。
――現在なら、大事をとってすぐに降板しますよね。というか、そもそも首脳陣が先発をさせないと思いますが。
工藤 当時は「まぁ、いくしかないよな」という思いでしたね。僕だけではなくて、みんながそんな状態でしたから。あの頃は肉離れをしてもすぐにアイシングをして患部を冷やした後に、トレーナーにその部分をしごいてもらうんです。これがとても痛いから、みんな猿ぐつわを口にくわえて、「オーッ」とか、「ウッ」ってうめいているんです。それからテーピングをして試合に出る。そんな時代ですから、「無理です。投げられません」とは言えなかったですよ。
(後編に続く)
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