秋山幸二が語る西武の黄金期
「『必勝法・必敗法』という冊子があった」 (3ページ目)
――当時、スワローズの背番号1は池山隆寛選手でした。秋山さんは自身の背番号1に対して、どのような思い入れがありましたか?
秋山 僕は背番号1に、そんなに強い思い入れがあったわけではないんですよね。最初は背番号71で入団して、24になってから試合に出られるようになって活躍したから、むしろ背番号24に愛着があったんです。でも、清原(和博)が入団してすぐに背番号3で活躍したことによって、「西武にもONを作ろう」ということになったんです。
――背番号1の王貞治、背番号3の長嶋茂雄の「ON」に対抗する形で、西武球団としては「AK(秋山・清原)」を売り出そうとしたわけですか。
秋山 そうそう。背番号1は自ら望んだわけじゃなくて、球団のほうから「背番号1でどうか?」って打診されたわけだから。最初は悩んだけど、周囲の勧めもあって1をつけることにしたんです。でも、王さんの背負った背番号1と僕の背番号1とでは、あまりにも違いすぎて特に意識はしなかったですけどね。
【普段はバラバラでも、試合になると一気に集中する】
当時を振り返る秋山氏 photo by Hasegawa Shoichi――秋山さんと清原さんとのコンビは「AK砲」と呼ばれました。また、そこに(オレステス・)デストラーデ選手を加えて「AKD」とも呼ばれていました。当時の3人の役割はどのようなものだったのですか?
秋山 「役割」というのは監督が考えることなので、とくに自分の役割を意識したことはなかったです。長打を求められる場面、走者を進める場面などに応じて、野球をしていました。ただ、僕の場合は「足を見せたい」という思いは強かったですね。四番・清原、五番・デストラーデが自分の仕事をしてくれるので、ほとんどの場合が(三番の)自分と勝負してくれるのはありがたかったですよ。
――秋山さんが走者として出塁している時には、どのような意識を持っていましたか?
秋山 キヨ(清原)の場合は、ファーストストライクが来るまでは絶対に打たなかったですね。だから、なるべく早いカウントで盗塁をすることを心がけていました。当時の西武は、僕に限らずみんなが自分の役割をきちんと理解していましたよ。みんなそれぞれに役割があって、「この場面は何をしなければいけないか」ということをみんなが理解していた。そんなチームだったと思います。プライベートではみんなバラバラなんだけど、いざ試合になるとパッと集中する。そんな感じでしたね。
――あらためて1992年、1993年について伺いますが、当時の秋山さんはプロ12年目の30歳、13年目31歳という、まさに脂の乗り切った時期にありましたね。
秋山 いやいや、ずっと試行錯誤していた時期ですよ。「もっといい打ち方があるんじゃないか?」「もっといい方法があるんじゃないか?」って考えていたと思います。年齢と共に筋肉も変化していくわけだし、常に試行錯誤していました。(1992年シリーズの映像を見ながら)ほら、"当時の秋山さん"の打ち方だって、"今の秋山さん"から見れば課題が多い打ち方ですから、まだまだだよね(笑)。
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