高津臣吾が松井秀喜に打たれた初本塁打
「仕方なく投げた直球だった」 (2ページ目)
――1992年のシリーズにおいて、岡林さんは初戦、4戦、7戦に先発。いずれも完投という驚異的なピッチングを披露しました。同級生として、どんな思いを抱いていましたか?
高津 やっぱり悔しかったです。彼がこんなにたくさん投げているのに、僕は投げていない。彼がしんどい思いをしているのに、何も手助けをしてあげられなかった。そういう気持ちが強かったですね。「試合に出たい、投げたい」とずっと思っていましたし、それ以前に「ベンチに入りたい」という思いばかりでした。岡林があそこまでの活躍をしなければ、そこまで強い気持ちにはならなかったかもしれないですけど、同い年の彼が孤軍奮闘している姿を見て、余計にその思いが強くなりました。
――同い年だからこその複雑な感情があったのですね。
高津 そうですね。リーグ優勝を決めた時も、僕は黒潮リーグ(1991年から2000年まで、高知を中心に開催されていた教育リーグ)に参加していて、胴上げに参加できませんでした。そして、日本シリーズではベンチ入りもできなかった。でも、結果的にあの時期に感じた悔しさが、のちに大きな転機となり、翌年の日本シリーズにもつながったんだと思います。
西武・潮崎哲也へのライバル心
現在はヤクルトの二軍監督を務める高津氏 photo by Hasegawa Shoichi――1993年ペナントレースからは、クローザーとして台頭し始めます。ジャイアンツの松井秀喜選手にプロ初ホームランを喫した5月2日は、同時に高津さんにとって「プロ初セーブ」の日となりました。
高津 この場面は「松井はインコースを打てるのか?」を探る意味と、「僕のストレートが18歳の高卒ルーキーに通用するのか?」を探る意味があったと、あとで聞きました。でも、当時の僕はそんなことは知らなかったので、「ストレートを投げろ」という古田さんのサインに何度も首を横に振ったんですけど、一向にサインが変わらず、仕方なく投げたストレートを打たれました。あの場面は、変化球なら抑えられる自信があったんですけどね(笑)。
――1993年の飛躍の要因として、遅いシンカーを習得したことが大きかったそうですね。
高津 1992年の日本シリーズで、西武の潮﨑(哲也)が投げている球速100キロ台のシンカーを見た野村(克也)監督に、「お前、あのボールを真似できないか?」と言われました。シリーズで、(ジャック・)ハウエルとか、秦(真司)さんとか、荒井(幸雄)さんとか、うちの左バッターがことごとく打ち取られている姿を見て、「お前がプロで生きていきたいのなら、あのボールを習得しなければダメだ」と言われました。
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