2019.05.12

近鉄で開花。ブライアントは
日本で本塁打アーチストになった

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Kyodo News

平成元年に助っ人たちが語っていた日本野球~ラルフ・ブライアント

 平成が始まった1989年、つまり今から30年前の平成元年のプロ野球。

 この年、両リーグの打撃タイトルは、ほぼ外国人選手が独占していた。セ・リーグの打点王のみ、中日の落合博満が獲得していたのだが、ホームラン王はセがヤクルトのラリー・パリッシュ、パが近鉄のラルフ・ブライアントが獲得。パの打点王はオリックスのブーマー・ウエルズで、ブーマーは首位打者にも輝いている。セの首位打者は巨人のウォーレン・クロマティで、最多安打のタイトルはそのクロマティとブーマーが獲得。さらに両リーグのMVPも、セがクロマティ、パがブライアントと、ともに外国人選手が選ばれていた。

 じつは平成元年の夏、のちにこのシーズンの両リーグでのタイトルホルダーとなるクロマティ、パリッシュ、ブライアント、ブーマーの4人に、それぞれインタビューを敢行していた。まだ結末の見えていなかったシーズン中の話ではあるが、その当時の彼らの言葉をあらためてここに綴ってみたい。平成元年を沸かせた外国人選手たちの言葉は、令和元年の今、果たしてどんなふうに響くのだろう――。

 メジャーとマイナーを行き来していたブライアントは、1988年のシーズン途中、ドジャースと友好球団だった中日ドラゴンズに入団する。しかし当時は一軍登録の外国人枠は2名で、ドラゴンズには郭源治とゲーリー・レーシッチがいたため、ブライアントの出番はなかった。

 そんな時、近鉄バファローズのリチャード・デービスが大麻不法所持により逮捕され、退団するという事件が起こる。この緊急事態にバファローズは、ドラゴンズの二軍でくすぶるブライアントのトレードを申し入れた。金銭で移籍したブライアントは1988年、2度の1試合3本塁打を記録するなど、74試合で34本のホームランを放って、その才能を開花させた。そして1989年も、開幕からホームランを量産する。

日本でプレーした8年間で3度の本塁打王に輝いたブライアント(写真右) ジョージア州の大学では、農業の勉強をしていたんだ。もともと僕は数学が得意でね。(アメリカン)フットボールにも夢中だった。ワイドレシーバーでね。野球もやっていたけど、始めたのは15歳、高校の時からだった。もちろん、子どもの頃から遊びで野球はやっていたけど、リトルリーグのチームには入っていなかった。だから周りの仲間と比べると、本格的に野球を始めたのはかなり遅いほうだったと思う。