渡辺久信が振り返る伝説の日本シリーズ。
「西武にエースはいなかった」 (2ページ目)
当時を振り返る渡辺氏 photo by Hasegawa Shoichi当時の西武投手陣にエースはいなかった
――当時のライオンズには郭泰源投手、工藤公康投手、そして1992年の日本シリーズで大活躍をする石井丈裕投手など、好投手がズラリとそろっていました。当時のライオンズのエースは誰だったのでしょう?
渡辺 うーん、「エース」という括りで考えたことはなかった気がしますね。「エースのプライド」とか、「エースのこだわり」とかよく聞きますけど、僕自身はそれほどエースというものにこだわっていなかったです。成績でいったら、僕なんかがトップになってくるんだろうけど、そもそもオレ自身が思っていないわけですからね。だから、この頃はエースなんていなかったと思いますよ。僕にとってのエースは、もっとすごいイメージがあるんです。稲尾(和久)さんをはじめとする歴代エースのイメージが強かったんです。
――「鉄腕」と呼ばれた稲尾さんのイメージが強かったんですね。現役通算251勝で、渡辺さんとも一緒にプレーした東尾修さんもやはりエースでしたね。
渡辺 そうですね、東尾さんもエースでしたよね。ライオンズの低迷期から長年にわたってずっと投げていたわけですから。普通、1年で20何敗もするピッチャーなんていないですよ。
――西鉄ライオンズ時代の1972年には18勝25敗も記録していますね。
渡辺 通常であれば、そこまで負けていたら二軍に落とされますよね。それでもずっと一軍で投げ続けているんだから、それはやっぱりエースです。
ペナント開幕戦のほうがずっと緊張する
――さて、1992年の日本シリーズ。初戦のマウンドに立ったのは渡辺さんでした。
渡辺 えっ、初戦はオレでしたか? 試合はどこでやりました? えっ、神宮? 全然、覚えてないですね。僕は何回まで投げましたか? ......7回を投げて3失点で勝ち負けなしか。スミマセン、全然覚えていなかったです(笑)。
――では、初戦のマウンドをいつ託されたのかということもご記憶にないですか?
渡辺 ......ないですね。僕はそれまでも、日本シリーズの初戦で投げることが多かったんですよ。1988年の中日戦、1990年の巨人戦は初戦先発でした。やっぱり、初戦に勝つのと勝たないのとでは全然違うし、負けるより勝ったほうがいいわけだから、「初戦はいいスタートを切ろう」と思っていましたよ。
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