ヤクルト荒木大輔は熱投→敗戦。石井丈裕は西武の勝利に複雑だった (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

――その和田監督が亡くなったのが1992年のことでした。そして、この年は荒木投手が、長いリハビリ生活を経て復活を果たした年でもありますね。

石井 彼が約4年ぶりに復活登板したその日(1992年9月24日)のことは、今でもよく覚えています。家に帰って、スポーツニュースで大輔の復活登板を知ってすぐに、彼に電話をしたんです。

――その一連の経緯は、荒木さんの書籍にも書かれていました。古い番号しか知らなかったから、荒木さんの実家に電話をして、新しい番号を調べたそうですね。

石井 そうです。それまでずっと連絡を取っていなかったから、高校の住所録を取り出して彼の実家に電話をかけて、お母さんに大輔の電話番号を聞いて電話をしました。「大輔が投げた」ということで、興奮していても立ってもいられなかったという感じですね。だって、テレビで知ったときに鳥肌が立ちましたから。

――どんな思いでその電話をかけたのですか?

石井 純粋にうれしかったんです。肘や肩というのはピッチャーの生命線ですよね。そこを故障して4年間もリハビリを続けることは、本当にキツいことだったと思うんです。それを乗り越えて復活したというのは、「同級生として」という思いもあったけど、「同じ投手として」という思いもあって喜びが込み上げてきたんです。彼がリハビリを続けている間は、何となくこちらからは連絡ができなかった。でも、このときはうれしくて電話をかけましたね。

複雑な思いで、荒木のピッチングを見ていた

当時を振り返る石井氏 photo by Hasegawa Shoichi当時を振り返る石井氏 photo by Hasegawa Shoichi――あらためて1992年日本シリーズについて伺います。この年の石井さんは第3戦、そして最終第7戦に先発登板しています。まずは第3戦のことから教えてください。

石井 先発を告げられたのはシリーズが始まる前の合宿のときでした。この年は年間を通じて活躍させてもらったので、「この成績に恥じないように、とにかく日本シリーズでも頑張ろう」という気持ちが強かったですね。

――この年の石井投手は15勝3敗3セーブという好成績でした。初戦が渡辺久信投手、第2戦が郭泰源投手、そして第3戦が石井投手。森祇晶監督の本によると、「第3戦は第7戦を任せられる投手を起用する」と書かれています。実際に第7戦にも先発登板をしていますが、そういう説明は事前に受けていましたか?

石井 いいえ、特に聞いてはいません。当時の僕は自分のことでいっぱいいっぱいで、「とにかく、任された試合をしっかり投げよう」という気持ちだけでしたね。この年、僕はプロ4年目なんですけど、それまでに1990年、1991年と日本シリーズに出場していました。でも、この2年間はいずれもリリーフ登板で、先発を任されたのは1992年が初めて。ずっと「先発したい」と思っていたので、"待ちに待った"という感じでした。

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