愚直に挑戦し続けた大家友和。
自身の壮絶野球人生を選手育成に活かす (2ページ目)
大家のNPB通算成績は、6シーズン(1994~98年、2010~11年)で8勝17敗、防御率5.23。現在、プロ野球の一軍から三軍まで58人の投手コーチがいるが、ほとんどは現役時代に輝かしい実績を残しており、大家よりNPBの在籍年数が少ないコーチは、広島の畝龍美と巨人の会田有志のふたりだけ。さらに、大家より勝利数が少ないのは、このふたりに日本ハムの伊藤剛を加えた3人だけである。
ベイスターズが重視したのは、NPBでの成績よりも、大家が自身の野球人生で証明した潜在能力を引き出せる方法を知っていることだろう。
1993年にドラフト3位で横浜ベイスターズから指名を受けた大家は、ルーキーイヤーの94年に15試合に登板し、1勝をマーク。しかし翌年から勝ち星に恵まれず、一軍と二軍を行ったり来たりしていた。転機が訪れたのは97年オフ。フロリダの教育リーグに参加した大家は、この時メジャーをより意識するようになった。
翌年、メジャー挑戦を直訴し、球団も承認したため自由契約となった。
野茂英雄がメジャーに挑戦したのが1995年。以降、何人かの日本人選手がメジャー挑戦を果たしたが、大家はほかの日本人選手と違いNPBでの実績はまったくなかった。当然、メジャーに上がれるという保障はなく、最初に所属したのはボストン・レッドソックスのマイナーの2A、トレントン・サンダーだった。
入団しても注目されることはほとんどなかったが、そこからメジャーにまで上り詰めた大家の経歴は、ほかの日本人選手にはないたくましさと説得力がある。
その後も順調にキャリアを重ねた大家は、モントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)時代の2004年には先発ローテーションの一員として活躍。しかしその年の6月10日、カンザスシティのマウンドに上った大家はアクシデントに見舞われる。ロイヤルズのカルロス・ベルトランの打球がライナーで大家の右腕を直撃。橈骨(とうこつ)という前腕の一番大きい骨を砕かれてしまったのだ。
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