川崎憲次郎が明かす、ドラゴンズFA移籍後の「つらすぎる4年間」 (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro photo by Kyodo News


 期待されていたのにピッチャーとして使い物にならず、みなさんに申し訳なくて、本当につらかったですね。実際に投げられなかったので、いくら文句を言われても仕方がない。プロとして仕事ができないわけですから。僕自身も、一番好きな野球ができなくて、苦しかったです。投げて打たれたのなら、いくら罵声を浴びても大丈夫なんですが。

 あのとき、僕にできたのは走ることだけ。「自分は何をやっているんだろう」と思っていました。契約自体は3年間でしたが、オプションが付いていて、実際には4年契約のような形でした。

――FA移籍後の年俸は推定2億円と高額だけに、厳しい視線にさらされたり、きつい野次が飛んできたりもしたでしょうね。

川崎 ほとんどがブーイングです。味方のファンからも敵のファンからも。たくさんのお金をもらっていたので、それは甘んじて受けるしかない。でも、風当たりは強かった......野球をやりたくなくて休んでいるわけじゃないから、耐えるしかない。飲食店などで僕に対する批判の声を聞くこともありました。とにかく、我慢我慢で。

 3年目になって、肩が相当痛いながらもやっと投げられるようになって、二軍が練習するナゴヤ球場のブルペンにいたときに、スタンドの1人のファンからこう声をかけられました。「ナゴヤドームで待ってるぞ!」と。それでものすごく感動して、おかげで息を吹き返しました。応援してくれる人のために、もう一度頑張ろうと思えたんですね。

――ボールを投げられない時期、オールスターゲームのファン投票で川崎さんに票が集まり「川崎祭り」と騒がれました。あのときはどんな気持ちでしたか。

川崎 最初、かなりの票が入っていると聞いたときは、単純にうれしかったですね。まだ応援してくれる人がいる、期待してくれる人がいると思って。でも、インターネット投票ということもあって、どんどん票が増えて、マスコミやワイドショーで取り上げられて大騒動になりました。3年間投げていないピッチャーが立つ場所ではないので、出場はお断りをしました。あれが「炎上」の走りかもしれませんね(笑)。

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