川崎憲次郎が明かす、ドラゴンズFA移籍後の
「つらすぎる4年間」 (2ページ目)
――では当時、メジャーリーグ行きの可能性もあったんですね。
川崎 破格の数字を提示されましたから。僕にはメジャーに対して憧れがあって、一度はあのマウンドに立ちたいと思っていました。それが最大の夢でしたし、野球以外に、語学や文化も学べるいい機会だとも思いました。
――日本の球団とは条件提示の何が違いましたか。
川崎 インセンティブがすごかったですね。それだけで、1億円くらい。先発登板でいくら、何勝以上すれば、そこから1勝ごとにいくら......と。アメリカは契約社会なので細かく決まっていて、日本との往復の飛行機代のことまで書かれていました。家族何人分までOKとか。代理人を通じて交渉しましたが、こちらの希望は何でも通る感じでした。
――でも、結果的に川崎さんが選んだのはドラゴンズでした。その決め手は何だったんでしょうか。
川崎 「巨人だけには勝ってくれ」という星野監督の言葉です。僕自身、ジャイアンツを倒すことに生きがいを感じていたので、その言葉は効きましたね。星野さんの巨人戦の勝利が35で、僕が29でしたから、6勝すれば追いつけるなと思ったことを覚えています。
――決定打は星野さんの男気と、打倒巨人という目標だったわけですね。
川崎 そうです、そうです。打倒巨人に燃える名古屋にある球団で、星野さんの記録を目指そうと思いました。
ファンの言葉で、もう一度頑張れた
――しかし、ドラゴンズに移籍して2001年から2003年までの3年間、一度も公式戦で一軍のマウンドに上がることができませんでした。原因は肩の故障ですね。
川崎 そうです。移籍1年目、2001年3月のオープン戦で、タフィ・ローズに投げたカットボール......その1球で......。投げた瞬間に「バキン」と音がしたような感じがして、「あっ、これはダメだ」とわかりました。それまで経験したことのない痛みがあって、即降板。そこから地獄が始まりました。ひじの痛みは我慢できるんですが、肩は本当に苦しい。
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