「平井正史を大エースにできなかった」山田久志の悔恨 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Nikkan sports

 翌年、チームはリーグ連覇、日本一を果たしたが、勝利の方程式を担ったのは野村貴仁であり、鈴木平だった。その年のオフ、山田は山口に「平井は先発で」との思いを伝え、チームを退団。

 平井は97年に9試合先発のマウンドに上がったが、かつての剛球はなりを潜めた。さらに99年以降の4年間は勝ち星、セーブともなし。2000年には右ヒジの手術も経験した。厳しいリハビリを経て、「今年ダメなら……」と強い覚悟を持って挑んだ03年、平井に転機が訪れる。山崎武司とのトレードで中日に移籍することになったのだ。この時、中日の監督だったのが山田だった。

「オリックスを離れてからも平井のことは気になっていましたが、あの頃は『もう平井は終わった』という雰囲気がありましたよね。実際、いろいろと情報を集めると、正直、厳しいかなというのはありました。でも僕はアイツのいい時を知っているし、ヒジがある程度治っていたら……という期待もありました。その時、トレード候補として平井を含め3人いたんですが、最後は平井に決めました」

 移籍1年目、中継ぎとして一軍に入ると、5月に先発の機会がめぐってきた。先発の駒不足に加え、平井のヒジの状態を考えると、間隔を空けて投げられる先発の方がいいという思いが、山田の中にあった。その期待に応え、平井は20試合に先発し12勝を挙げる活躍を見せ、カムバック賞を受賞した。ヒジの不安が完全に消えた2005年からは再びリリーフに転向し、55試合に登板。以降もコンスタントな働きで中日を支えたが、2012年オフに中日を自由契約。そしてトライアウトを経てオリックスに復帰することになった。

 昨年は21試合に登板したが、今年は1試合のみ。それでもまだ150キロ近いボールを投げ、ファームでは23試合に登板し、0勝1敗4セーブ、防御率1.17の結果を残した。ただ、平野佳寿、佐藤達也ら、12球団屈指のリリーフ陣に割って入るまでには至らず、現役最後の登板は9月30日、ナゴヤ球場で行なわれた中日との二軍戦だった。「まだできる」という自信はあったが、同時に「最後はオリックスで終わりたい」との思いも強かった。現役続行の道をあきらめ、この秋からオリックスの二軍コーチとして第二の野球人生を送ることになった。

「アイツはいいコーチになると思うよ。先発をやって、リリーフもやって、優勝の喜びも、故障の辛さも知っている。いろいろ経験しているから、ファームのコーチは適任。まあ、口下手でオレみたいにはいかないと思うけど(笑)。歳も若いし、まさに兄貴分。しっかり若手を鍛えて、オレができなかった大エースを育ててほしいよ」

 20年前、19歳のルーキーを初マウンドへ送り込んだ師の夢を引き継ぎながら、39歳の新人コーチが新たな一歩を踏み出した。

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