阪神時代の絶頂期に藤川球児が打ち明けた苦悩 (3ページ目)
中谷仁(なかたに・じん)1979年5月5日、和歌山県生まれ。甲子園の名門、智弁和歌山高校出身。甲子園には正捕手として3度出場し、2年生だった 1996年センバツ大会では準優勝。3年生の1997年夏の甲子園では主将として全国制覇を成し遂げる。同年のドラフト1位で阪神に入団。その後、 2005年オフに金銭トレードで楽天へ移籍。2012年からは巨人に移籍。その年を最後に引退し、巨人ブルペン捕手としてリーグ優勝に貢献。2013年の WBC日本代表でもブルペン捕手としてチームに帯同した。現在は大阪の野球教室「上達屋」でプロ野球選手から子どもたちまで幅広く指導を行なっている。
さらに続けて、「仁さんが構えたところに投げて打たれたら、100%、仁さんのせいだから、そこのところは頼みますよ」とも。それだけコントロールに自信があったのでしょう。実際、私の構えたところに寸分の狂いもなく、球児は投げてきました。
実は、私の一軍デビュー戦(2002年8月11日)、マウンドにいたのが球児だったんです。この試合、先発マスクは矢野(燿大)さんだったのですが死球で骨折。私は3番手捕手としてベンチにいたので、次に出るのが2番手捕手。さすがに出番はないなと思っていたのですが、2番手捕手の方がワンバウンドの球をうしろに逸(そ)らしたんです。そしたら星野仙一監督(当時)が怒って、捕手交代。急遽、私がマスクをかぶることになりました。とにかく緊張して、周りを見る余裕などなかったのですが、マウンドにいる球児の姿を見たときはホッとしました。何度も二軍で組んでいましたし、どうリードしたらいいかも大体わかっていましたから。
なんて思っていたら、コントロールのいいはずの球児がワンバウンドの球ばかり投げてくるんです。「あれ、今日の球児は調子悪いのかな」と思いつつ、とにかく必死にボールを止めていました。そして試合が終わり、球児に「調子悪かったん? ワンバウンドばっかりやったな」と言うと、球児はとんでもないことを言ってきたんです。「仁さん、なに言うてんの。ワンバウンドはわざとやで。2番手捕手の方はそれが止められなくて、代えられたんでしょ。でも、仁さんは止めた。そうすれば、仁さんの良さがわかってもらえるでしょ」って。
私は配球を考えたり、ボールを捕ることに必死だったりで、球児がそんなことを考えていたとはまったく想像できませんでした。その頃の球児は、まだ“勝利の方程式”に組み込まれるような投手ではなく、負け試合に登板するような存在でした。自分も必死なはずなのに、私がアピールできるようにわざとワンバウンドを投げてきてくれたんです。
球児のおかげで、それからしばらくは試合に出させてもらったのですが、結局、定着することはできませんでした。せっかく球児がチャンスをくれたのに……。あの時にチャンスをものにできていればと思うこともありますが……悔しいですけど、仕方ないですね。私は先にユニフォームを脱ぎましたが、球児はまだ夢の途中。彼のこれからの野球人生をしっかりと見届けたいと思います。
(おわり)
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