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【MLB】大谷翔平と1980年代のバレンズエラ――多様性の街・ロサンゼルスを野球でひとつにした「希望の光」 (2ページ目)

  • 奥田秀樹●取材・文 text by Okuda Hideki

【1980年代のバレンズエラが街に与えたもの】

 この街を野球でひとつにした存在といえば、かつてもうひとりいた。2024年10月22日に63歳でこの世を去ったフェルナンド・バレンズエラである。

 1981年、英語を話せないメキシコ出身の20歳が突如としてドジャースに現れ、ロサンゼルスを熱狂の渦に巻き込んだ。シーズン序盤の8試合で7完投、5完封、防御率0.50という伝説的なスタート。名実況アナウンサー、ビン・スカリーは、投げて打って勝ち星を重ねる若者に「フェルナンド、君はどの言語でも、すばらしすぎるよ!」と称賛、「フェルナンドマニア」という言葉が生まれた。『ロサンゼルス・タイムズ』紙は登板日ごとにスポーツ面を拡大した。

 最終的に、バレンズエラは公式戦25試合で11完投、13勝7敗、防御率2.48を記録。ワールドシリーズでは宿敵ニューヨーク・ヤンキースに2敗を喫した後の第3戦に先発し、147球を投げ抜いて完投勝利。シリーズの流れを変え、ドジャースは世界一となった。バレンズエラは史上初めてサイ・ヤング賞と新人王を同時受賞した選手となっている。

 バレンズエラの偉業は、1981年の快進撃だけにとどまらなかった。彼の登場は、ドジャースという球団そのものの姿を変えた。それまで白人中心だったファン層が劇的に多様化し、今のように人種や文化の壁を越えて愛されるチームへと生まれ変わった。

 ご存じのとおり、もともとニューヨーク郊外ブルックリンに本拠を置いていたドジャースは1958年、ロサンゼルスに移転する。市当局はダウンタウン北側のチャベス渓谷の土地を提供し、新球場建設を推進した。商業機能が衰退していた都心部を活性化させるには、市庁舎から1マイル(約1.6キロ)の場所に文化とレジャーの拠点をつくることが必要だと考えたのだ。

 だが、その土地にはすでに約1800世帯のラテン系住民が暮らしていた。住民たちは計画に反対し、激しい抗議運動を展開する。1958年6月3日に住民投票が行なわれ、投票総数67万7000票の結果、約2万5000票差で土地の譲渡が承認された。翌1959年5月8日、立ち退きを拒んだ最後の住民の家屋がロサンゼルス郡保安局によって強制的に撤去された。

 こうした経緯があったため、ロサンゼルスには多くのメキシコ系住民が暮らしていながらも、長い間ドジャースを応援する人は少なかった。彼らにとって、ドジャースタジアムは"奪われた土地"の象徴だったからだ。

 その心の壁を打ち破ったのが、ほかならぬバレンズエラだった。『ロサンゼルス・タイムズ』紙のコラムニスト、ディラン・ヘルナンデス記者は、その歴史的背景をこう説明する。

「住民が強制的に立ち退かされたという経緯があったため、長い間、ヒスパニックの人々はドジャースを応援しませんでした。白人のチームであり、白人のためのエンターテインメントという認識だったんです。しかし、ウォルター・オマリーオーナーはロサンゼルスにメキシコ系の人々が多いことを理解し、スカウトをメキシコに派遣して才能のある選手を探すよう指示しました。そこで見つけ出されたひとりが、バレンズエラだったのです」

 興味深いのは、バレンズエラ登場で、メキシコ系コミュニティ内部の分断までもが癒されたという点だ。ヘルナンデス記者は続ける。

「メキシコ系アメリカ人といっても、実はひとつではないんです。たとえば、私の妻は6歳のときにアメリカへ来ました。彼女が育った地域では誰も英語を話さず、完全にスペイン語の世界でした。だから妻は、イーストロサンゼルスに住む3世や4世のメキシコ系アメリカ人のことを、もはやメキシコ人じゃないと言うんです」

 バレンズエラがデビューした1981年当時は、不法移民が急増していた時期でもあった。英語を話し、むしろスペイン語を話せない3世以降のメキシコ系アメリカ人は、最近入ってきた移民たちと距離を置く傾向にあり、同じルーツを持ちながらも差別や対立があった。

 そんななか、バレンズエラが現れ、マウンドで無敵のピッチングを見せた。彼は新たにやってきた移民たちにとって希望の象徴であり、同時にアメリカで生まれ育ったメキシコ系の誇りをも呼び覚ました。バレンズエラは、ロサンゼルスという街をひとつにしただけでなく、分断されていたラテンコミュニティをもひとつにしたのである。

つづく

著者プロフィール

  • 奥田秀樹

    奥田秀樹 (おくだ・ひでき)

    1963年、三重県生まれ。関西学院大卒業後、雑誌編集者を経て、フォトジャーナリストとして1990年渡米。NFL、NBA、MLBなどアメリカのスポーツ現場の取材を続け、MLBの取材歴は26年目。幅広い現地野球関係者との人脈を活かした取材網を誇り活動を続けている。全米野球記者協会のメンバーとして20年目、同ロサンゼルス支部での長年の働きを評価され、歴史あるボブ・ハンター賞を受賞している。

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