【特別対談】元浦和学院・森士監督が「BUNGO」に見た理想のチームづくり「紅白戦で競わせるマネジメントはすごくいい」 (3ページ目)
浦和学院の監督として甲子園通算28勝を挙げた森士氏 photo by Masashige Ogataこの記事に関連する写真を見る森 僕が監督になった1991年は甲子園のベンチ入りメンバーは15人でした。それが94年に16人に、2003年に18人に増えました。90年代は埼玉大会のベンチ入りは甲子園と同じ人数だったんですが、2000年から選手の出場機会の増加とケガの防止を理由に埼玉大会のベンチ入りの人数が20人に増えたんです。
二宮 それはいいことだと思いますが、甲子園出場を勝ち取ったあとで、監督としては苦渋の選択を迫られてしまうというわけですね。
森 だから僕は足切りをしないように心がけました。埼玉大会の19番、20番を外すのではなく、甲子園が決まったら、1番から選び直します。埼玉大会での結果をもとにチームを再編成するんです。
二宮 それはシビアなマネジメントですね。ベンチ入りメンバーを選手間の投票で決めるチームもありますが、それはいかがですか。
森 僕はその方法を選んだことはありません。責任は自分で取る。僕自身、高校時代は一度もベンチに入っていないんです。中学の時には全国大会で準決勝まで行ったんですが、高校に入ってすぐにケガをしてしまって......。
【故障と向き合った高校時代】
二宮 プロで活躍した山崎裕之さんや仁村徹さんが活躍した埼玉の強豪、上尾高のご出身です。森さんはピッチャーで、アンダースローだったそうですね。
森 アンダースローというか、サイドスローでした。小学5年生の頃から大会で投げるようになったらヒジを痛めてしまったんです。その頃に曲がったヒジは今も伸びないままです。
二宮 ホントだ......曲がったままですね。
森 中学に進んでからもヒジは痛かったんですが、同じ野球部に右のオーバースローがいて、ノーコンでしたが135キロは出ていました。僕は110キロが精一杯だったので、顧問の先生が「普通に上から投げていても限界があるから、横から放ってみたらどうだ」って言うんです。それで見様見真似で横から投げたら、それがハマって......。
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