検索

【特別対談】元浦和学院・森士監督が「BUNGO」に見た理想のチームづくり「紅白戦で競わせるマネジメントはすごくいい」 (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Yuta Ishida

二宮 横から投げたらヒジの痛みを感じなくなったんですか。

 そうなんです。当時はビデオがなかったので動画は残っていないんですが、その頃のフォームの写真を見ると、ヒジの使い方がうまいんですよね。上から投げていた時よりヒジをうまく返して投げていたんです。アンダースローといえば山田久志さんですが、どちらかといえば小林繁さんのサイドスローに近いフォームでしたね。

二宮 同じ上尾高校の先輩、仁村徹さんがアンダースローでしたから、森さんもそんなイメージかなと思っていました。

 実際、高校では僕のサイドスローがぎくしゃくしていて中途半端だと言われて、アンダースローで投げるように指導されました。ただ、アンダースローは僕には合っていなかったんでしょうね。結局、パンクしちゃいました。

二宮 ヒジは手術したんですか。

 はい......高校野球の2年4カ月のうち、ヒジのリハビリで1年は棒に振りました。入学した頃は180センチで58キロというヒョロヒョロの体型でしたし、腰の痛みにも悩まされました。

【人生のメンバー外になるな】

二宮 森さんは1964年生まれ、同学年には早実の荒木大輔さんや池田の畠山準さん、同じ埼玉には市立川口の斎藤雅樹さんがいました。荒木さんは1年生で夏の甲子園に出場して準優勝しましたし、畠山さんは3年の夏、甲子園で優勝しています。斎藤さんは甲子園には出られませんでしたがドラフト1位で巨人に入団......そういう同学年の選手たちをどんなふうに見ていたんですか。

 大輔の早実が出ていた3年春のセンバツには上尾も一緒に出ていたので、僕は控えの控えの控えぐらいのピッチャーでベンチにも入れませんでしたが、大輔にはライバル意識みたいな感覚はありました。中学時代に投げていた自分のボールを取り戻せば、オレもできるはずだ、という気持ちがあったんです。だから大学(東洋大)でも野球を続けましたし、当時の上尾の野本(喜一郎)監督から「アイツが一番練習した」と言ってもらえるくらい、頑張れたんじゃないかと思います。高校時代の僕はひたすら走りましたし、みんなが飲んでいた炭酸飲料も一度も口にしたことはありません。通学も片道20キロの道のりを自転車で往復しました。それを野本監督が見てくれていて、「アイツはいい指導者になれるよ」と言ってくれたことが、今の僕につながっていると感謝しています。

4 / 6

登録は簡単! チェックを入れてボタンを押すだけ 詳しくはこちら

キーワード

このページのトップに戻る